お互いが提婆達多

一切なりゆき 樹木希林のことば (文春新書)

この境地はすごいなぁと思いつつ読みました。

 

P56

 お経は今でも、気がつくと声に出して読んでいることがあります。一人で暮らしていると、「今日は誰ともしゃべってないな」という時がありますよね。そんな時にお経を読むと、心身の活性化につながります。わたしにとってお経を読むのは、日常的なことなんです。

 お経の中の言葉が、生活の中で、ふっと口をついて出て来ることもあります。たとえば、この映画(『神宮希林 わたしの神様』2014年公開)の中でも、私は「夫は私にとって提婆達多みたいなものだ」という表現をしています。提婆達多はお釈迦様の従兄弟で、最初は同じ教団内で活動していたものの、やがて反逆し、お釈迦様を殺害しようとまでした人物です。しかしお釈迦様は、提婆達多がいたからこそ、見えてきたものがあるとおっしゃっています。自分にとって不都合なもの、邪魔になるものをすべて悪としてしまったら、病気を悪と決めつけるのと同じで、そこに何も生まれて来なくなる。ものごとの良い面と悪い面は表裏一体、それをすべて認めることによって、生き方がすごく柔らかくなるんじゃないか。つまり私は、夫という提婆達多がいたからこそ、今、こうして穏やかに生きていられるのかも知れません。

 皆さまもご存じのとおり、夫は、俺の神はロックだと言うような人で、思いこんだら一筋。そのため何かと騒ぎを起こしてきました。傍からは、私がちゃんとしていて、あの人がめちゃくちゃというふうに見えるかも知れませんし、まあ、実際その通りでもあるのですが、私の方にも、あの人と一緒になってから、自分が、これほどいさかいの好きな女であることがわかったという面もあります。

 肋骨が折れるほどの大喧嘩をした日さえありました。よくもまあ、あれほど激しくやり合えたものですが、自分の中にも、何かどうにもならない混沌とした部分があって、それが、内田さんという常にカッカしている人とぶつかり合うことで浄化される。そういう部分もあったのではないかと、今は思うのです。誰もが自分にとっての提婆達多を持っているし、それと同時に、自分も誰かにとっての提婆達多になりうる。我々は、互いが互いにとっての提婆達多なんです。だから、人に何を言われても別れないんでしょうね。