問いの立て方

問いの立て方 (ちくま新書)

「学問からの手紙」が興味深かったので、こちらの本も読んでみました。

 

P58

 かつてヘラクレイトスは、「深淵の際までは行けるだろうが、その底を覗くことは決してできない」と言ったそうです。古来まれなる哲学者、偉人たちもこの時点において、なんとか、深淵と称した自分は無いという事実(=虚無=真理)に飲み込まれることなく、いうなら、あちら側にいってしまわずにこちら側にとどまった人格なのでしょう。あちらに行った人たちは黙って生き黙って死んだ。あるいは気が触れて死んだ。そのため歴史に残っていないのです。そして、達しつつも黙っていた人格たちを、(ほんとうの)哲学者たちが理想としていた気持ちがよくわかります。黙らずに語ろうとするなら、―ほんとうにほんとうのこと、「本質」なるものに迫ろうとする場合においてのみ―必ず二元論の矛盾(後ほど述べます)と向き合うことになり、どうしてもどこかで調整し辻褄をあわせる必要が生じるからです。そうしないと保てないのです。新しい概念や専門用語を導入したり、あるいは誰かを否定したり……。我々が何かの精神に触れ感動を呼び起こすとき、そういう矛盾と葛藤を原点とする止むに止まれぬあがきにこそ、深み、凄みを感じるのでしょう。だからこそ、直ちに「自分はわかっている」「答えがある」「誰それが悪い」などと言い放つ精神を軽蔑するのでしょう。そんなにはっきり言えるほど真理は生半可なものじゃないよ、と。そう言えるほど、自分とは確固たるものじゃないよ、と。

 ついでながらそう考えると、(西洋、東洋と分けるのは不毛とわかりつつも)禅という思索の歴史を持つ我々は端的に不可知との相性がいいと考えます。四の五の言わず「もう、わかっちゃった」、それだけで済む話なのですから。言葉は疑われ、自分すなわち人間も疑われ、自分なるものが絶対的不可知と重なったなら、そりゃあ、月を見ただけで笑いの一つも出てくるのでしょうね。

「いやいや、自分はないというが、これを読んでる自分はいるじゃないか」と感じることでしょう。そう、確かに自分はいます。他人と話し、物に触れることができ、腹が減れば食し、怪我すれば血が流れる身体が確かにあります。しかし、ここまで述べてきたように考えてみたら、自分はいなくなるのです。自分がないのに自分がある……このようなとんでもない矛盾、大矛盾の上に自分の存在が成り立っているということを認めざるを得ません。

 

P140

 かのピータ・ドラッカーは「最も成果をあげる者は、自分自身であろうとする者だ」と言っています。本書では成功や成果が第一目的ではなく、我が人生への納得あるいは精神の成長・成熟こそを目的とするものですが、ドラッカーもまた成功を述べる際に、同等かそれ以上に自己の成長について語った事実はとても興味深い。

 

P153

 生きるとは白色の世界を塗る営みだと認めるなら、それは、自分の問いの深さ、懐疑がいかほどのものか、それがそのままその人の人生、生き様となります。その問いが十分深ければ、すなわち本質的であるなら、それは常識的に生きる人を深く納得させることとなり、あるいは納得されなくても何かを感じさせるものになるでしょう。人の生き方に正しいも間違いもないのは、そして勝ちも負けもないのは、あまりに常識。先に、本分であるなら偏りも然りと書きましたが、それはこの理由によります。

 地球を守りたい人間がいる。地球を壊したいとまでは言わないが自分の暮らしを優先させたい人間がいる。そういう勝手な人間が同じ地球に存在していることがこの世のあり様です。なるようにしかならないとはこのことであり、これは断じて諦めではなく、これまでの全歴史への承認と信頼です。

 我々は大丈夫です。なるようにしかならず、ならないようになったことは全歴史のうちでたったの一度もありませんから。荻生徂徠の言うように、何もかもが全部人間のすることです。同じ人間のすることです、過去も現在も、そして未来においても。

 「大丈夫」というのはそういう意味です。持続可能とか、エネルギー枯渇とか、そういう次元ではなく、きっとこれまで同様、今もそしてこれからも人間として在る、そういう意味です。いや、もはや「人間」という主語すら煩わしい。「在る」。それだけで事足ります。

 この眺めで改めて自分の問いを見るなら、また違った色を帯びませんか。自分の問い、暮らし、生き様、そっくりそのままが、全体あるいは歴史たる人間としての問い、暮らし、生き様です。その問いは、何を目指して、何について、何をどうしようと何しているのか、そして、それは何をしていることになるのか……。