素晴らしい試み、実践がたくさん紹介されていました。
P93
・・・Sansanが神山にサテライトオフィスを設けたのは2010年10月のこと。その源流は、寺田が目にしたシリコンバレーの働き方にある。
大学卒業後、三井物産に入社した寺田は2001年にシリコンバレーに赴任した。三井物産が出資したベンチャー企業に送り込まれたのだ。ここで、寺田はシリコンバレーの働き方を目の当たりにする。
「向こうの連中はとにかくよく働くのに、端から見ているとあまりハードに見えない。なぜだろうと思ってみていると、シリコンバレーの環境と働き方が大きいと気づいた」
米国の西海岸に位置するシリコンバレーは自然豊かな土地柄。しかも、グーグルやフェイスブックが典型のように働き方も時間の使い方も社員の裁量に任されている。あの豊かな自然と自由な働き方。それが、社員のゆとりや創造性に影響を与えている、と感じたのだ。
ところが、2002年に帰国してみると、多くのビジネスパーソンが満員電車に揺られて会社に行き、パソコンに向かって帰るだけの生活を送っていた。
「まさに、額に汗して、という日本の労働感を地でいく感じ。『それってどうなのよ』と思ったのがそもそもの始まりですね」
その後、2007年6月にSansan(当時の社名は三三)を創業した寺田は、名刺管理サービスの事業展開に奔走した。その中でも、シリコンバレー的な働き方を日本でも実現させたいという思いは頭の片隅にずっと残っていた。
それが、「神山ラボ」という形に昇華したのは全くの偶然だった。
Sansanが古民家を借りる少し前、トム・ヴィンセントが神山温泉そばの古民家を改修、「ブルーベアオフィス神山」を開いた(59ページ参照)。トムは1990年代半ばからウェブのデザインコンサルティングを手掛けてきたクリエイターで、現在は日本のいいモノや面白いモノを世界に発信するトノループネットワークスの代表を務めている。グリーンバレーが進めるワーク・イン・レジデンスに共鳴したことがスタジオづくりのきっかけだった。
この時、設計を担当した建築家グループの中に寺田の高校・大学時代の同級生、須磨一清がいた。
・・・彼の話を聞いて興味を持った寺田は即座に神山を訪問、「新しい働き方を実践できる」と神山ラボの開設を即断した。
・・・
「自然もあるし、IT環境もいいし、グリーンバレーの人たちは面白いし。サテライトには申し分ないと思いましたね」
神山が気に入ったのはグリーンバレーの雰囲気もある。
神山ラボの設立前、寺田は理事長の大南信也に言った。
「ここにラボをつくる以上はビジネスだけでなく、できる限り地域に貢献したいと思います」
地域に進出するのだから至極当然の言葉である。
ところが、大南は意外なことを口にした。
「そんなことは構いませんので、本業が成り立つことを証明してくれればエエよ。無理はせず、あくまで経済合理性で判断してください」
寺田は長身瘦躯のイケメンで、一見すると数字と論理を重視するドライな人間に映る。だが、一皮めくれば社員思いで内にアツイものを秘めている。創業経営者として公私の区別を厳格に意識しているがゆえに、必要以上に合理的に振る舞っているという面も少なくない。
この時も、寺田が気にしたのは、神山ラボの設立が社長の道楽に思われるのではないか、ということだった。
寺田にとって神山ラボは新しい働き方を実践する実験場であって社業そのもの。だが、そこに「私」を持ち込むと、神山ラボの位置づけが曖昧になってしまう。そう考えた寺田は、家族をラボに連れてくることも控えていた。
そういう人物だけに、「経済合理性で判断してほしい」という大南の言葉は心に刺さった。
P120
歯科医の家庭に生まれたココ。歯科医を目指して進学した岡山大学歯学部でチャンに出会った。・・・大学を卒業した翌年に籍を入れた。
・・・普段は歯科医院で働き、オフはスキーに行ったり、マウンテンバイクで山を下りたり、映画を見たり、家に友達を招いたり……と、それなりに贅沢な暮らしを楽しんでいた。
だが、そんな生活に疑問を持ったチャンとココは結婚4年目に歯科医を辞め、放浪の旅に出る。1998年5月のことである。
メキシコを皮切りに、中南米に1年、ヨーロッパに1年、そしてアジアを半年の都合2年半、バックパッカーで海外を回っていました。・・・
・・・当時はまあまあリッチな生活でしたけど、こんな生活をしていていいのかな、とずっと思っていました。・・・過剰に作って、過剰に消費して。そういう日本での生活に疑問を感じたんです。チャンもよく言っていました。「日本っていうのはヘンな国だなぁ」って。
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実は、いいところがあれば、そのまま向こうで暮らしてもいいかな、と思っていました。・・・けれど、結局は日本に戻ってきてしまいました。
もちろん、経済的な面も大きかったのですが、チャンも私も周りがよくなるように働きかけながら生きていく方がいいと思っていて。・・・外から「日本はダメだな」と言うよりもずっといいので。
それで、日本に帰ってきた後に、終の棲家を探す旅を始めました。・・・最終的に高知と徳島に絞ったんですが、縁あって、古民家を借りたばかりの恵樹さんのところにお世話になりました。2002年の夏ですね。
神山で借り暮らしを始めたチャンとココ。・・・徐々に神山に引き込まれていった。・・・
生活の基本は薪。料理をするのも、風呂を焚くのも、集めてきた薪を使った。・・・
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世界を放浪して、モノやカネが中心ではない生き方を目の当たりにしてきた。ここで足を止めようと思ったのも、神山であればそういう暮らしが実現できると感じたため。・・・
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神山を終の棲家に思い定めたチャンもカフェ兼歯医者の開業を決め、そのための土地も取得した。・・・2006年のことである。
だが、カフェと歯医者をつくるというチャンの夢は頓挫する。病魔に冒されていることが判明したのだ。・・・2009年初頭に永眠した。ガンだった。
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彼がいなくなるまでは、コツコツ家を直したり、カフェの準備をしたりしていたんですが、看病や彼自身の体調もあるので計画はストップしていました。ただ、彼がいなくなって1年たった頃に、ようやく自分の中で、ひとりでもやろうかなっていう気持ちになって。
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歯医者のイメージはチャンと話し合っていたんですよ。待合室はどこかの家のよう。近所の方が気軽にやってきて、お茶の一杯でも飲みながら世間話をするような場所。建物はなるべくナチュラルなものにして、絵本や写真集など気持ちを和ませてくれる本を置く―。チャンは「和みの場」と表現していましたが、私もそういう医院をつくりたいと思っていたので、それをここでつくりました。
P199
移住者やサテライトの関係者に神山の印象を聞くと、「町の人が優しい」「よそ者扱いがない」といった反応が返ってくることがほとんどだ。もちろん、移住者が増える現状を快く思わない住民も中にはいるが、閉鎖的なコミュニティーが多い日本の田舎にあって、神山に漂うウェルカム感はちょっと違う。
その理由としてよく語られるのはお接待文化である。神山には第十二番札所の焼山寺(57ページ参照)があり、町中をお遍路さんが行き来していた。遍路には「お接待」の慣習があり、巡礼者に地域住民が食べ物や飲み物を施す文化がある。その文化が、オープンな神山の精神風土を形成しているという考え方だ。
もっとも、異質なものに対する「慣れ」も大きい。
ALTの受け入れを始めた1993年以降、神山の人々は外国人と毎年のように接してきた。KAIRが始まると、アーティストという極めて特異な人種が町を闊歩するようになった。別の場所に目を向けても、チャンやココのように世界を放浪した旅人がいれば、自給自足に近い生活をしている自由人もいる。
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・・・地域住民にしてみれば、グリーンバレーが活動を始めて以来、「よく分からない人がいる」という状態が常に続いている。その慣れに伴ういい意味での無関心が、神山のウェルカム感のベースにあるように思う。異質なものとの交流。それが、地域と人を変えるのだ。
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IT企業のサテライトオフィスばかりが話題になる神山だが、サテライトだけが神山ではない。エンジニアからフリーターまで、あるいは起業家から自由人まで―。神山町の魅力は、さまざまな背景を持った人間が集まる多様性にある。
「エエ感じになってきたな」
大粟山の散策中、ベンチに腰掛けた大南は漏らした。林業で繁栄したのは半世紀も前のこと。ピーク時に2万人を超えた人口も、今は6000人余りにすぎない。それでも、人口流出と高齢化という時代の流れに、槍ひとつで立ち向かってきた。その挑戦が、ようやく実を結びつつある。
ところで、一週間ほどブログをお休みします。
いつも見てくださって、ありがとうございます(*^^*)
