セラピスト

セラピスト (新潮文庫)

発売された時、興味はあったもののそのままになっていた「セラピスト」を読みました。
改めて日本の心理療法の歴史を振り返ったり、ふむふむと読みつつ、そんなことないけどな?でも一般にはそう思われてるのかな?というところもありつつ、色々と実感を持ちながら読みました。

こちらは私の好きな箱庭療法について書かれていたところです。
言葉にするしないというより、まだ言葉になっていないことが浮かんできたり、兆候が見えたり、そういうところも箱庭の魅力だと思います。
自分を知るということに関しては、カウンセラーになるまでも、なってからも、ある程度トレーニングを積んだつもりでしたが、全然足りてなかったです(^_^;)
ヘミシンクで宇宙規模で自己探索できたことによって、大きな変化がありました。
そういう意味でも、ヘミシンクってすごいなーと、ハマってしまった訳ですが。

P47
 ・・・箱庭療法に向いているカウンセラーというのもいるのだろうか。
「まずはその治療者自身が箱庭に興味を持っていることですね。興味がない治療者のところに患者が行って、たとえそこに箱庭があったとしても、患者は作りませんね。カルフさんのように、いつでも興味持ってるよー、見てるよー、という姿勢の人のところへ行くと、作ろうと思わない人まで作ってしまう」
 患者が作った箱庭は、解釈してはいけない場合もあるとご著書の『箱庭療法 基礎的研究と実践』でお書きになっています。河合隼雄も「一番困るのは、ある程度の成功例を背景に恣意的な〝解釈〝をまき散らす人である」(『カウンセリングの実際問題』)と注意を喚起していますが、これはなぜでしょうか。
言語化することによって形骸化してしまうというか……」
 木村はそういって少し口ごもった。そのとき、同席していた大学院生の地蔵原奈美が、あのう、と遠慮がちに口を開いた。
「言葉だけでは表現できないものがあった場合、言葉にしてしまうことで削ぎ落とされてしまう。言葉にできないもののほうが大事かもしれないのに、言葉になったことだけが注目されて、あとは置き去りにされてしまう」
 ・・・
 箱庭療法はつまり、言葉にしないことに意味があるということなのか。では、言葉にしないことでなぜ回復につながるのだろうか。患者がいて、そばで見守る治療者がいて、共に箱庭を鑑賞する。そんな日々を重ねるだけでなぜ人が治るのか。そもそも、治る、回復する、とはどういうことなのか。
 ・・・
「あなたもこの世界を取材なさるなら、自分のことを知らなきゃならないわね」
 心を扱うからには、カウンセラーがクライエントについて知っておくのは大切で、基本的なことと思われたが、自分を知っておかねばならないということは、いまひとつ腑に落ちなかった。河合隼雄も生前、「深い治療をしようという人は、自分のことをよく知っていないとだめです。自分自身をよく知るためにも、カウンセラーになる人はカウンセリングを受けるのがよろしい」(『カウンセリングの実際問題』)と書いている。