エリザベス・キュープラー・ロスの晩年を記録した映像、ずいぶん前に私も見て、驚いたのを覚えています。
谷川俊太郎さんのこの文章を読んで、ああこういう見方もあるのかと印象的でした。
P135
倒れる前に出版された『死後の真実』の中でロスはこう書いています。「ほとんどの人は、人生の中で直面するあらゆる苦しみ、あらゆる試練や困難、あらゆる悪夢、あらゆる喪失を、呪いであり、神からの罰であり、何かよくないことだと考えています。でも、自分の身に起こるものに悪いことなど何一つないことに気づかなくてはなりません。本当に何一つないのです。どんな試練も困難も、最も辛い喪失も、また[もしそのことを知っていたら、とてもやってはこれなかった]と言わせるようなことも、全てあなたへの贈り物なのです」
こんなに心打つ立派な言葉を残した人が、あんなに真摯に献身的に死にゆく人々に尽くした人が、自分のこととなると痛ましいほどに神に怒り、運命を呪う、その落差を腹立たしく思う人もいるだろうし、そこに平凡な老女の姿を見て安心する人もいるかもしれない。ぼくはそこに個人としてのロスに重ねて、おおざっぱな言い方ですが、西洋と東洋の文化の違いが見られるように思います。・・・
P152
テレビカメラに向かって怒りをぶつけるエリザベスは、死はもちろんのこと、生もまた不条理なものと感じていたのでしょう。でもぼくは思います、不条理という言葉は「分かる」ことのみを追求してきた西欧的な理性の産物に過ぎないのではないかと。それを最後まで信じて生き、行動したエリザベスは確かに「本物」なのでしょう。でもね徳永さん、骨董品の「真贋」ならともかく、人間に本物、偽物ってあるんでしょうか?父親がやはりそういう二分法で人を判断するのを見て育ったせいもあって、ぼくはどんな人間も本物と偽物が灰色に入り混じった存在だと考えたい立場です。
若いころは自分の感じ方、考え方ももう少し違っていたかもしれません。近ごろ人間は「小さい私」から、年を重ねるにつれてだんだんに「大きい私」に育っていくのではないかと思うようになりました。誤解のないように付け加えますが、ここで言う私は自我のことではありません。自分以外の存在を受け容れる器としての私、ユングさんの言うセルフです。自我が肥大していくのではなく、むしろ自我が他者に、世界に溶けこんでいくというイメージです。でもこれ、もしかするといい加減になることと、極めて近いのかもしれない。