「落合は、接する側の立場や状況によって様々な顔に映るのだということがわかった」とあったように、誰もがそれぞれの現実を見ている、ということがよくわかる内容で、興味深かったです。
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・・・スーツ姿の球団幹部がやってきた。
「皆さんにお伝えしなければならないことがあります」
その硬い表情に、一同は静まり返った。私は手にしていたペンを握りなおした。
「落合監督の私物のバッグが紛失しました。試合の途中までは監督室にあったことを本人もスタッフも確認しています。バッグには財布の他に、大切にしている御守りが入っていたということです。球団としては、盗難の可能性もある……と判断して、警察に届けるつもりです」
・・・
私は人垣の中で肩をぶつけながら、かろうじて落合の表情を見ることができた。いつもは一点を見つめ、確信めいたものを浮かべている落合の視線が宙を泳いでいた。
「バッグや財布はいいんだ。あれさえ戻ってきてくれれば……」
落合は隣にいる夫人に目をやって、そう言った。
・・・
・・・
私はためらいながら、ここに来た理由を説明した。
「そもそも、なんで落合さんが御守りを持つようになったのか、それが訊きたくて……」
夫人は少し驚いた様子だったが、やがて、砂浜に面白い貝殻でも見つけたかのような表情になった。
「あんた、そのために、ひとりで来たの?」
私が頷くと、夫人は可笑しくて仕方ないというように笑った。
「よし!いいよ!入りな」
落合邸は玄関を上がると、すぐ左にあるリビングへ通された。・・・
・・・
「ある日、私がデートから家に帰ったらね……ああ、そう、当時は別にお付き合いしている人がいたのよ。そうしたら、家の鍵が開いているのよ。誰だろうと思って中に入ったら、落合が勝手に上がり込んでいたの。女性の家によ!」
夫人は大きな目を、さらに見開いた。
「アパートの大家さんに鍵を借りたのね。それで私の顔を見るなり『豚肉を買ってきたぞ。お前の分も焼いたから食え』って。私、頭にきちゃってね。だって失礼でしょう。だから、『私、お付き合いしている人がいるのよ!』て、はっきり言ってやったのよ」
・・・
「でもね、落合ったら『そんな奴より俺の方がいいぞ』って。『それより豚肉、食え。美味いぞ』って。なんか、その顔見てたら私、もう力が抜けて、笑えてきちゃって……」
・・・
「だから、『私と付き合いたいのはいいけど、じゃあ、あんたどうなりたいの?』って訊いたのよ。だけど何もないの。野球ができりゃそれでいいって、あんまりにも欲がないから、ある時、『あんた、何か信じるものを持ちなさい』って私が言ったの。『今、持っている大事なもの、御守りから何から全部持ってきなさい』って。私も同じようにして、それを二人してベランダで燃やしたのよ。その代わりに渡したのが、あの御守りなの」
二人は過去を火に焚べながら約束したのだという。タイトルを獲る。三冠王を獲る。つまり、ただ野球をやるだけでなく、世に名を残す。
・・・
その火は落合にとって、どんな意味を持っていたのだろうか。
私はまだ誰にも知られていないころの落合を思った。
飛び抜けた野球の才能を持ちながら、体育会の理不尽を許せず、秋田工業高校の野球部を辞めた。野球を見込まれて進んだ東洋大学でも寮を飛び出し、中退した。気づけば、ポケットに五円しかなく、日比谷公園や上野公園で夜を明かした。東芝府中の臨時工として配電盤を組み立てながら野球を再開したころも、特に夢はなかった。
世間が知る落合の無名時代の逸話である。
寄る辺なく世間を彷徨っていた男にとって、すべてを灰にしてから結んだ契りは、初めて見つけた打算や理屈なしの繋がりだったのではないか。その日、落合はすべてを捨て、確信的なひとつを得たのではないだろうか。
「あの人ね、昔からいつも私に球場へ来い、一緒に行こうって言うのよ」
夫人は眉間に皺を寄せながら、微笑んだ。
御守りを手にした落合は、プロ野球という舞台でその特殊な能力を示しはじめた。毎年秋になると、タイトルのかかった一試合、一打席が巡ってきた。摑むか、手放すか。わずか一瞬で全てが決まる。そんな日になると、落合は見送りに出てきた夫人の手を引っ張って、車に乗せるのだという。
「俺、今日打つから、一緒に行こう―」
夫人は黙って車に乗り、閑古鳥が鳴く川崎球場のスタンドの一番目立つところに座った。その目の前で落合は打った。
ふたりはともに闘っていた。
・・・
それから夫人は、御守りを失った落合について話した。
神宮でのヤクルト戦に向かうこの日の朝、落合は新しい財布を手に家を出ようとした。そこで夫人は財布を取り上げ、裸の札を渡した。
「どうせ失くすんだから、これでいいでしょう?」
バツの悪そうな落合の顔を見て途端に可笑しくなったという。それにつられて落合も吹き出した。二人は顔を見合わせ、その場で笑い合ったのだという。
「もう、可笑しくなっちゃってねえ……」
・・・
私は時計の針を見て、腰を上げた。スタジアムに行かなくてはならない。
礼を言って門扉を出ると、夫人は、落合と同じ66番のユニホームを羽織って、手を振っていた。
「今日も勝つよお!私も後で行くからねえ!」
夏の午後の重たい空気を突き通すような声だった。
なぜ、落合が「別に嫌われたっていいさ」と言い切れるのか。
なぜ後援者も派閥も持たず、一匹狼としてグラウンドに立てるのか。
つまり、落合にとっての御守りとは何か。
私は夫人の姿を見て、わかったような気がした。そしてこの朝、夫人と笑い合った落合にはもう、あの円柱型ケースは必要ない気がした。
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取材者と対象者の関係だった八年間で、監督としての落合についてはあらかたのことを見てきたつもりでいたが、あらためて時間の経過を追いながら取材してみると、記者の視点ではとらえきれていなかった別側面がいくつもあった。落合は、接する側の立場や状況によって様々な顔に映るのだということがわかった。
破壊者であると見る人もいれば、迷える者を導く革命家であると信じる人もいる。ひとつだけ共通していたのは、いつまでも謎であり、その言動の真意について深く考えざるをえないことだった。
