研究者、技術者、様々な方が登場する中、小堺一機さんのお父さんが南極料理人だったとは、初めて知りました。
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日本料理の業界誌に、南極観測隊で調理担当者を募集中という記事を見つけまして。「へえ、これはおもしろい!」と思い、当時、東京にあった国立極地研究所に出かけていきました。
女房に「とにかく行ってくるわ」と言って、下駄っぱきで。それで、隊長の村山さんという方にお会いしました。エラい人だなんて知らないから、べらべらべらべらしゃべりっぱなし。私は好奇心が強いし、とにかく南極に行ってみたいんですよ、ってことだけは伝わったのかなと思います。
それから福島県の磐梯山で訓練を受けて、南極に行くことが正式に決まったときは、本当にうれしかったですね。
私は新潟県出身で雪に慣れていたことと、なによりも、気取らずべらべらしゃべることがかえってよかったのかと思います。
当時は寿司職人でしたが、食堂で働いていたこともあったので、いろいろな賄いもできました。
でも月に1回は寿司をやろうと決めて、法被や付け台も用意したんです。冷凍で持っていけるネタ、たとえばマグロとかイカは日本から持っていきました。
もちろん冷凍でも、鮮度は落ちてきます。それでも、だましだまし、最後まで寿司を握りました。
理由は、隊員たちが月に一度の寿司を楽しみにしてくれていたからです。握り始めると、付け台の前からずっと離れない人もいたぐらいでした。
また毎日の献立は、明日は何にしようかなんていっさい考えませんでした。朝起きたときの感じで、今日はこんな天気だしなぁ、なんてその都度思い立ったものに決める。予定したメニューを予定どおりに作るなんて、私には向いていないというのもあったのですが、これがけっこう好評でした。
隊員にとっては食事がいちばんの楽しみなので、とにかく変わったことをしなければという思いはありました。
食事で楽しませなければ、調理師としては不合格です。
だから週に一度くらいは焼き肉パーティー。なにかおもしろいものはないかなあって倉庫を見ていたら、ジンギスカンの兜みたいな鉄板をみつけてしまい……。これが一斗缶の丸い穴に乗せるとちょうどいい大きさで、一斗缶の下のほうに窓をつくって、火をいれる。高さもちょうどいいし、上手く焼けました。
すぐに食堂のテーブルを取っ払って、一斗缶の焼き肉台を五個くらい置いて、みんなで囲んで食べるという感じ。もう、みんな喜んじゃって喜んじゃって。ただ、食堂には排気口がなかったので、部屋の中が煙だらけになってしまったのには閉口しました。
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たまにご飯が余ると「お茶漬屋」なるものを臨時開店しました。鰹節を持参していたので、鍋に出汁をとり、お吸い物の味付けを少し濃くしたものを作っておいて、鮭とかタラコとか、昆布の佃煮なんかを置いておく。そうしたらちょっと小腹が空いたときにでも食べられる。これもすごく喜ばれました。だから一度もご飯を捨てることはありませんでした。
そうやってアイデアを考え、それが当たると喜びもひとしお。外でバーベキューをやったり、第15次隊のときは雪上車の車内でもお寿司を握ったこともありました。
私は隊員のなかでもある程度年配だったので、若い人は私にあだ名をつけにくかったのだと思います。それで、自分であだ名をつけました。食堂入口の黒板に「本日より小堺は出家し、チンネンと名を改めた」と書きました。そうしたら「チンさん」と呼ばれるようになり、いまだに他の隊の人からもチンさんって言われるのですから、大成功でした。1年間、毎日毎日「小堺さん」なんて呼ばれたら嫌ですからね。
遊び場っていうのは、自分で見つけないと退屈しちゃうところ。
昭和基地から犬を連れて島巡りしたり、ペンギンやアザラシを見に行ったりしたこともありました。
でも楽しい反面、常に危険と隣り合わせ。地獄と極楽が極端なので、なめてかかったら絶対にダメな場所。それが南極ですね。