これもまた驚きの…考えたこともなかったことでした。
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・・・見えない人は、・・・だからこそ、空間を空間として理解することができるのではないか。
なぜそう思えるかというと、視覚を使う限り、「視点」というものが存在するからです。視点、つまり「どこから空間や物を見るか」です。「自分がいる場所」と言ってもいい。・・・
同じ空間でも、視点によって見え方が全く異なります。同じ部屋でも上座から見たのと下座から見たのでは見えるものが正反対ですし・・・
このことを考えれば、目が見えるものしか見ていないこと、つまり空間をそれが実際にそうであるとおりに三次元的にはとらえ得ないことは明らかです。それはあくまで「私の視点から見た空間」でしかありません。
ひとつ例をあげましょう。広瀬浩二郎さんがよくあげる例です。
広瀬さんの職場、国立民族学博物館は、大阪の万博記念公園の中にあります。・・・
広瀬さんは言います。「太陽の塔に顔がいくつあるか知っていますか」。そうすると、見える人の多くが同じ答えを返すと言います。曰く「二つ」であると。なるほど、確かにてっぺんに「金色の小さな顔」と胴体の中央に「大きな顔」が見えます。
でも実際には、太陽の塔には三つの顔があります。先の二つに加えて、背中側にも「黒い太陽」と呼ばれるちょっと不気味な顔がある。・・・見える人にとっては万博公園の入り口方向から見たあの姿こそ、太陽の塔の姿とされている。・・・
「アウト・オブ・サイト、アウト・オブ・マインド」なんていう言い方がありますが、視界に入らないことは、軽んじられ、忘れられることを意味します。しかも、見える人にとっては顔は正面にあるものと相場が決まっています。まさか背中側にも顔があるとは思いません。
模型で太陽の塔を理解している視覚障害者の場合、こうした誤認は起きにくいと広瀬さんは言います。・・・
要するに、見えない人には「死角」がないのです。これに対して見える人は、見ようとする限り、必ず見えない場所が生まれてしまう。・・・
しかし、見えない人というのは、そもそも見ないわけですから、「見ようとすると見えない場所が生まれる」という逆説から自由なのです。視覚がないから死角がない。大岡「山」の例でも感じた、自分の立ち位置にとらわれない、俯瞰的で抽象的なとらえ方です。見えない人は、物事のあり方を、「自分にとってどう見えるか」ではなく「諸部分の関係が客観的にどうなっているか」によって把握しようとする。この客観性こそ、見えない人特有の三次元的な理解を可能にしているものでしょう。