やさしい言葉たち

こといづ

 読んでいてやさしい気持ちになる、印象に残ったところです。

 

P68

 変わってゆくとはいえ、生まれてこのかた、ずっと変わらず追い求めている「これぞ我がいのち」と魂がうち震えるような何かが、ある。どこにあるのか、きっと躰の中にあらかじめセットされているような、春がやってきたのがうれしくて村人も山々も笑っていて幸せだなあと、ピアノでも弾いてやれと包み込んでゆくと、音の波と山の精気が混じりあって、魂がうち震えて、これこれこれのこと、と思ったりする。震える魂自体は同じ気がするけれど、震わせられる条件が毎度違う。だから「こうやればいい」という方程式はなくて、だからこそ何度でもピアノを弾いてみたくなる。

 

P221

「あんた、また気張って勉強しとるんかい」、ハマちゃんが仕事部屋の窓越しに中を覗き込んでいる。微笑みながら「そうやで、毎日、ああでもない、こうでもないって音を鳴らしてるんや。元気かい、どうしたん」「あんな、大根なんぞ炊いたんは、あんたはいらんやろ」と少し照れながらハマちゃんが尋ねてくれる。「欲しいで、食べたいで」「そうか、じゃあ取りに帰ってくるわ」と拳をぎゅっと握りしめて駆けっこのポーズを取ったので、「一緒に行こかい」とハマちゃんの家まで並んで歩いた。

「ここからな、ほれな、あんたんとこが、ようやっと見えるようになってきた。葉が落ちてくれて、あんたの家が見える。見えるだけでうれしいもんやで」。冬になると毎回してくれるこの話が、僕は大好きだ。「大根のな、容れもんはこれでいいかい。よう見とみ。なんの形やい」と手渡してくれたのはハート型の容器だった。「そういうこと」と、ニカッと笑うハマちゃんを背に、急な坂を上って家に戻る。

 ふと見上げると、家の上に虹がかかっていて、笑う。

 

P222

 この冬は、久しぶりに映画音楽に取り掛かっている。・・・

 ・・・

 ・・・ある日、ようやく「ああ、これだ!」といとおしいメロディが歓びと共に降ってきた。

 やったあ、よかったよかったと監督にも送ってみたけれど、どうにも反応がいまいちだ。・・・

 ・・・「ここから先、どのように進めればいいと思われますか」と苦し紛れに監督に尋ねてみると、「今まで出してもらったスケッチは一度忘れてもらって、いつもの高木さんの感じでやってもらえれば。『いつもの高木さんで』、それだけを望んでいます」と穏やかな笑顔でおっしゃった。

 あれ?いつもどおりに……、自分の思うままに……、そうやって進めたのがこれまでのスケッチだったのに……???そもそも「いつもの自分」っていったいなんだろうと、ぐるぐる目眩のするような問答の穴に落ちてしまった。

 ・・・

 ・・・思いついたメロディを演奏して、よし、おもしろい感じになってきたかもと、再び監督に送ってみる。「いや、うーん。何かが違うというか。ほんとうにいつもの高木さんのままでやってもらえればいいのですが……」と困っている返答だった。「映画に寄り添い過ぎているのかもしれません。しばらくは僕の言葉を横に置いてもらって、出来上がってきた映像も見ないでもらって。今まで高木さんにお伝えしてきた言葉は、映画に対する僕のひとつの解釈に過ぎませんから。高木さんは高木さんで、映画全体を俯瞰的なところから見てもらって、そこから音を奏でてもらえれば」。

 何かがピンときた。そうか、「いつもの自分らしく」。そういうことか。僕の勝手な思い込みだったり、妄想をそのまま表に出してしまっていいということか。・・・相手に寄り添おうとするのは大事なことだけれど、相手の心と同じになろうとしてしまうと、「自分らしい心」は消えてしまう。相手が赤だと思っていても、こちらが青だと思っていたなら、それでよかったのだ。一緒になれば紫になる。それも単純な紫ではなく、時には赤になったり、赤っぽい紫だったり、真っ青になったり、自在に変化するおもしろい色彩。誰かと一緒に何かを生み出すというのは、そういうおもしろさだなあと、改めて気がついた。

 ・・・

 もう自分がやるべきことがわかった。音が頭の中で流れ出したので、それを拾っていく、ただただ、こぼれないように受け止めていく。そのメロディが、いいか悪いか、そういうことはわからないけれど、そのまま監督に送ってみる。「ああ、これですよ。欲しかったのはこれです。このまま進めてください」。ほっ、ようやく、はじまった。

 生まれてきた人、それぞれが持ち合わせている「いつもの自分らしさ」、それぞれのきらきらした宝もののような眼差し。それが交わったり離れたり、はみ出していったりしながらも、同じ方向に向かって、待ち受ける未来に辿り着く。・・・

 

P239

 誰にも知られなくていい、ずっと自分の一番素直な中心から、それと同時に一番遠く自分から離れた宇宙の果てに、その間のどんな時空でもいとおしいような、そんな心でありたい。

 昨日の夜、庭の小川を覗いてみたら、蛍がたくさんふわふわと暗闇を泳いでいた。たくさんの光が一斉にゆったりと瞬いて、大きな呼吸をしているみたいだった。

 

こといづ

こといづ

 「あるんだから」「肩書きはその人なりの喜びが書いてあったほうがしっくりくる」「どうやったら自分の天才は喜ぶのか」・・・など、たくさん印象に残る言葉がありました。

 

P4

 2012年春から2018年夏まで、6年間、月刊誌『ソトコト』に掲載された77篇のエッセイを極力こぼさずに一冊にまとめたものが本書になります。

 ・・・

 6年間の間にいろいろありましたが、やはり山間の小さな村に引っ越したのがなによりの転機だったと思います。目まぐるしく生きる自然や心豊かな人たちに囲まれて、僕の頭の中も、自分の何かを表に出したいというよりも、やってくるものをきちんと受け止めたいというふうに変わっていったと思います。

 この本にもよく出てくる86歳のハマちゃんがよく言います。「あるんだから」。そう、あるんだから。ついつい、あれがあったらなあ、ここがこういう場所だったらなあと、ない物ねだりをしてしまいますが、目の前にいっぱいある、あふれるようにあるものごとにこそ気づいて、一緒に楽しく心安く暮らしていけるだけで、だいたいいつも幸せでいられるのだなと知りました。

 

P22

 ・・・例えば、皆が欲しがるような何かが目の前に差し出された時、我先に手に入れることに喜びを感じる人もいれば、自分以外のほんとうに欲しがっている人が手に入れることに喜びを感じる人もいる。もしかしたら、誰の手にも入らないことに喜びを感じる人もいるかもしれない。どれが正しいとか美しいという話ではなくて、そこにはいろんな種類の喜びがあるという話。

 世の中には、いろんな職業がある。僕だったら、「音楽家/映像作家」が肩書きだ。だけど、僕自身が、世の中に即してどうある人なのかを説明するのに、しっくりくる言葉ではない気がする。子どもの頃から何十年もかけて、その人なりの喜びを受け取る道をひたすら歩んできたのだから、きっと、ほんとうのプロフェッショナル、肩書きは、「音楽家」みたいな職種の名前などではなく、その人なりの喜びが書いてあったほうがしっくりくる気がする。

〝三つ子の魂〟が育て上げた、喜びを受け取る能力を、あの人もこの人も持っている。だれもかれも、子どもの頃があったのだと、そんな視線で世の中を見られると、ほっと穏やかな気持ちになる。

 

P26

 ・・・「普段は出てこないけれど、いざとなったら出てくる自分の才能」、これに対して、あっぱれ!と信じて、当てにするのがいいです。どんなにすばらしい才能を持った人でも、その才能が常にいつでも出てくるものじゃないことを知っています。自分が気持ちよく解放された瞬間だとか、誰かの想いを受け止められた、風を切るように走れた、いいアイデアが思いついた、大きな声が出たなど、思いもよらなかった自分の能力を味わえた最高の瞬間って、皆それぞれたくさん持っていると思っています。

 自分の天才を外に出すこと。どうやったら、この天才が生み出す素晴らしい何かをきちんと表に出せるのだろうか。悩むのだったら、その部分に対してきちんと悩んで、あとは悩まなくてもいいと思っています。

 ・・・

 まるで、釣りと同じ感覚です。豊かなものは、もうそこにあるのだから、あとはどうやったら釣り上げられるのか。乱暴に釣り上げることだってできますが、同じ漁でも、いろいろ知って、魚を喜ばせたい。魚が喜んでくれたら、実りはきっともたらされます。あとはもう感謝していただくしかありません。

 どうやったら自分が喜ぶのかより、どうやったら自分の天才は喜ぶのか。そこに想いを巡らすと楽しくなります。なかなかうまく進めない時は、天才を喜ばす経験が足りていないのかもしれない。あれこれ悩むより、一歩、「今の自分」の外に出て、自分の中の天才を喜ばすあれこれに出会う旅に出たいものです。

 

P112

『しょうぶ学園』の音楽集団「otto&orabu」と、この1年、何度か一緒に奏でましたが、先ほどありがとうのお手紙が届きました。そこにこんな素敵なことが書いてありました。

「淡路島では、再びご一緒させていただくことができてとてもうれしく思います。メンバー(知的障がいがある演奏者)もスタッフも、高木さんと打ち解けてとても楽しそうでした。こちらへ戻って数日し、メンバーと会った際に『ライブ楽しかった?』と聞きました。『うん。今日のお昼は○○だよ』と返ってきました。ほとんどのメンバーが、今のこと、もしくはほんの少し先のこと(数時間後のお昼ごはんとか)。私たちはつい、思い出にして懐かしんだり、振り返ってみたり、キレイにしたり、反省したりしますが、メンバーはやっぱり『今』なんだなと改めて感じた出来事でした。

 時間は常に流れ、ただ過ぎていき、その瞬間だけがあること、どんな瞬間もかけがえがないなあと思います」

 

P216

 村の集まりで男たちだけで酒を交わした。「かっちゃん、村おこしとか、そういうのはここではもういいんや。ここだけは別でいいんや。わかるか。今おるわしらが機嫌ようやっていこうやないか。機嫌よう毎日やってるのが一番ええ」。そう、機嫌よく。自分を機嫌よく。毎朝、目覚める度に、まるであたらしい朝だということに気づいてあげられれば、自分を歓ばせてあげられれば、極楽は目の前にある。

 ハマちゃんの口癖、「あるんだから」。そう、あるんだから。すでにあるんだから。

56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました

56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました - 生死をさまよった出産とシニア子育て奮闘記 - (ワニプラス)

 こんなこともあるんだと、読みながらこちらまでハラハラドキドキ・・・最新医療ってすごいのだなという驚きもありました。

 

P206

 夢中で育児に追われ息子の寝かしつけにも慣れてきた。

 息子が1歳になってしばらく経ったある日の深夜、妻から出産に至るまでの迷いを根堀り葉堀り聞いてみると、驚くべき事実を知った。

 というか夫婦に会話がなかったわけではないので、断片的には聞いていたのだが、「そんな大変な思いをしていたとは」と、わが鈍感力を呪い、まったく夫というのはなんの役にも立たないなあと痛感したのである。

 これから書くことは、大げさに言えば、「息子が産まれることで母体が危険にさらされたことが、じつは母親の命を救っていた」という話である。

 妻は、今から15年ぐらい前、30代の頃から子宮筋腫があったのだという。

子宮筋腫があること自体は女性にとって珍しくないんだけど、私の場合はそれが大きくて、徐々に膨張していたのよ。(10年前の)結婚したあたりで6センチはあったかな。年に1回は経過観察をしてくださいと主治医に言われていたの」

 ・・・

 妻の場合、筋腫の数が多いのも心配ごとだったという。

「大きいのが1つあるうえに、私の場合は〝多発性〟で、ほかに小さいのも2つ3つ育ってた。女性ホルモンで育ってしまうんですって」

 ・・・

 子宮筋腫の肥大化でもやもやする一方で、妻の心配ごとはさらに増えていった。

 年に1回受けている女性健診で、2019年9月に、子宮頸ガンの疑いが発覚したのだ。

 ・・・

 ・・・精密検査の結果は、やはり、「子宮頸ガン疑い」の軽度のもので、「半年に一度、経過観察が必要」という診断結果だった。

 加えて、内診とエコー検査の結果、「子宮筋腫がこれだけ大きいと、手術をしたほうがいい。筋腫が血管を圧迫して血栓ができる可能性もある。そうなれば命に関わります」と、心配に追い打ちをかける警告もあった。

 それで妻は、さらに別のクリニックで子宮のMRI検査を受けることになった。・・・

 その結果は―。

子宮筋腫は大きすぎるので、腹腔鏡などで筋腫だけを取るのは困難。開腹で筋腫だけを取るのはリスクが大きく、子宮全摘を考えてもいい時期だ」というのが医師の見解だった。

 妻が振り返る。

「カルテにある私の年齢を見て、『子ども、もういいですか?』って言われて……。そのとき44歳になってたから。そうか、『もういいですよね』と言われる年かと。そういう年になったのかって、このとき現実に直面したのよね」

 妻は、9月に精密検査して、10月にそう宣告されていた。

 この間、私はいったいなにをしていたのか。

 LINEの妻とのやりとりで振り返っても、熱海に1泊旅行をしたり、浅草の「まつり湯」という日帰り温泉に行ったりして、妻とは飲んだくれていた記憶しか残っていない。

 なんてことだ!

 今後の人生を考えて、子宮筋腫の肥大化による血栓の危険性と、「子宮頸ガン疑い」が同時に消える「子宮全摘手術」を現実として考え始めていた妻。

 そのときの心境はどうだったのか。

「お医者さんに、『いや産みたいんで……』という年でもないし、妊活も不妊治療も真剣に考えてこなかったから、そこで『子どもは欲しいので全摘だけはしたくないです』とは言えなかったの。ただ、そこで初めて、『二度と子どもは持てない』『100%無理なんだな』とわかって、ズーンと落ち込んだ。子宮筋腫が大きくなり出した40歳前後から、なんとなく予感はしていたけど、なにもしてこなかったから」

「あとはなによりも、臓器を1つなくすという恐怖。ホルモンバランスがおかしくなるだろうし。その一方で、病気になるほうが怖いし、ガンになるのも怖かったから。手術を先延ばしにすることにあまり意味はないだろうなって」

 子宮全摘手術を勧めた医師に、妻は「わかりました。そっちの方向で考えます」と答えていた。

 ・・・

 このとき妻から相談を受けた記憶は鮮明にある。この先の2人の人生も短くはないだろうし、なにより妻には長生きしてほしいと思ったので、「3月に子宮全摘手術を受ける」と決断した妻に反対する理由はなかった。

 ・・・

 さばさばしているように見えた妻だが、「今だから言えるけど……」と前置きして、こう明かした。

「すごく重たい思いを抱えていたんだけど、周りの友だちには誰も相談できなかった。だって同年代で人知れず不妊治療をしている友だちは多いだろうし、そういう人はそろそろ不妊治療をあきらめる時期だろうし。なにもしてこなかった私が、『子宮を全摘することになったの』と同情を買うようなことはとても言えなかったのよ」

 その「重たいもの」をいったん忘れるように、2019年末の年越しタイ旅行で、夫婦ともに弾けまくって遊んだことは1章で書いた。その結果、奇跡的に赤ちゃんに恵まれたというわけだ。

 タイ旅行から帰ってきて、妻は体の異変に気づいたという。

 ・・・

 ひどく動揺したらしい。

 子どもができてから、妻はよく私に、「変化を楽しもう」と言っていたのだが、それは変化が好きじゃないことの裏返しだった。

「いまさら生活が変わるのかと、不安でいっぱいになった。嬉しくてたまらないのだけど、頭の整理がつかない。年齢も年齢だし、元気な子を産めるのだろうか、自分の子宮で大丈夫なのか……。摘出しなければいけないような状態だったわけだし、もうハラハラドキドキが止まらなくなって、口から心臓が出てくるってこういうことかと思ったわ」

 それでも、妊娠検査薬の判定ミスなど万が一のことがあるかもと思い、夫の私にも親にも言えず、かかりつけの婦人科で診てもらったのだという。

 医師は「妊娠検査薬で出たのならばほぼ間違いないでしょう」と言ったあと、検査を始めた。

「エコーで勾玉みたいな形をした2センチの赤ちゃんがくっきり映っていて、先生から『声も聴けますよ』と、エコーから聴かせてもらうと、『ドクドクドク』ってすごい速さの心臓の音が聴こえてきた。その瞬間、わーっと涙が……」

「大丈夫でしょうか?この子」と聞く妻に医師は、「元気だし、エコーを見た限りではなんの問題もないですよ」と出産にGOサインを出した。ただ、高齢出産のうえ、子宮筋腫があるという事実は動かしようがない。

 医師は、「出産年齢よりも、筋腫がちょっと心配だよね。あなたの場合はハイリスクなので。日本医大付属病院で出産まで診てもらいましょう」と紹介状を書いてくれた。

 ・・・

 ここから先の、日本医大付属病院での妊娠経過観察から、東大病院での帝王切開手術による出産、妻が妊娠中に患った心筋炎の危機は、長々と綴ってきたとおりだが、驚くべきことに、出産によって妻の体の中の懸念が2つとも消えていたのだ!

 子宮頸ガン疑いである「軽度異形成」については、出産前の検診で「消えていますよ」とあっさり告げられた。これは自然治癒する例もあるのだという。それも、お腹の子が助けてくれたのだろうか。

 そして、心配の種だった大きな筋腫については、帝王切開手術のときに、筋腫から出血があったため、「取っておきました」と、こちらも産科の執刀医にあっさり報告を受けたそうだ。

 妻の詳しい話を聞き終えた私は、しばらく呆然とした。

 晩婚で、時にケンカもしながら2人で楽しく暮らしてきた。

 老後のことを考えるより、次の休みにどこへ行って、なにを食べるかを大切に、今を生きてきた。子どもができるか、できないか、それは授かりものだと思っていた。そのときそのときの今が楽しく生きられればいい。

 その考えに後悔はないが、これから先も、もっと自分の、妻の、体の声も聞きながら生きていけば、悪しき前兆を食い止めたり、楽しさが倍増したりするのかもしれない。

 今をもっと大事にしよう。

 我が家では、まさに神様から授かったとしか思えないタイミングで、妻が子を宿した。

 しかし母体と子どもが命の危険にさらされた。その危険な状態が劇薬となって、妻の体から懸念材料を消し去ってくれた。人間の持つ底知れぬパワーを思い知らされる。

 そのパワーはかけがえのない今を毎日、笑って過ごすことから生まれる。

 妻よ、我が子よ、本当にありがとう。

水中考古学は何よりも楽しい

沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う (新潮文庫 や 88-1)

 こんなに夢中になれるって幸せだなあと、こちらまでニコニコしてしまいました。

 

P89

 大学院ではもう一つ大切な出会いがあった。ブラジル人留学生のロドリゴだ。・・・

 彼は私よりも9歳年上のブラジル人だ。優秀な学生に支払われるフルブライト奨学金を勝ち取り、私が修士課程に入った1年後の2010年に博士過程の学生として入ってきた。ロドリゴはいつでもニコニコ、発掘現場の全てを楽しみながら、しっかりと成果も出していた。

 彼と出会うまで、私は勉強方法に効率は求めながらも、どこかで「成功するためには努力しなければならない。今努力をすればその分だけ将来が明るくなる」と考えていた。

 いつだったかは覚えていないが(おそらく彼とお酒を飲んでいた時だろう)、そんなことを彼に話した。すると彼は「しっかりやれば、努力をしながらも楽しむことはできるはずだよ。どちらか一方だけを選択するものではないし、なにより今日を楽しみながらやらないと損だよ」と言った。

 彼の生き方を聞いた後、私はただひたすら努力するのではなく、なるべくその時その瞬間を楽しむように心掛けた。心掛けたというよりは「心を解放した」といった方がいいのかもしれない。

 この本を書いている2024年現在、私はいろいろな国の現場で働かせていただけるようになっている。私の依頼主は各国の政府や大学で働く著名な水中考古学者達なのだが、皆から言われるのが、「君が誰よりも楽しそうに仕事をしているから、見ていてこっちまで楽しくなる」ということだ。

 ただ、私は無理に作り笑顔をしているわけではなく、ロドリゴのように全力で楽しむようにしているだけだ。水中考古学は何よりも楽しい!だから単純に楽しくなっているのだ。

 

P115

 こうしたプロジェクトの依頼はどのように舞い込むのか。

 私の場合、まず各国の政府の考古学研究機関や博物館、大学の学術調査のみを受けることにしている。理由はただ一つ。しっかりと研究を行える学術調査が楽しいからだ。

「学術調査以外に考古学者がかかわる発掘案件なんてあるの?」と不思議に思う方もいるかもしれないが、世界中の考古学の発掘調査の90%以上が、建設工事などに伴って行われるものなのだ。

 ・・・

 学術調査の場合、どこかで重要な遺跡が発見されたとの報告が研究機関に届くと、まずその機関が国や地域に関わる重要な遺跡かどうか判断するため、事前調査を行う。その後、政府や財団へ発掘研究費を申請、それが通ると調査チームを発足させる。私への調査参加オファーはこの段階で連絡が来る。・・・

 ・・・

 気になる報酬だが、これが値段設定でいつも頭を悩ませる。なぜかというと、私は日本よりも遥かに物価が高いフィンランドデンマークからも、逆に物価のかなり低いコロンビアやクロアチアなどからも依頼を受ける。なので値段設定を均一にできないのだ。

 そこで日本やアメリカからの依頼を100とすると、フィンランドデンマークからの依頼を150~200、クロアチアやコロンビアなどの国からは30~50で引き受け、コスタリカミクロネシア連邦などからは場合によっては10~20で引き受けることもある。日本やアメリカからの依頼だけを引き受けていれば、生活に困らない程度の報酬を得ることができる。フィンランドデンマークなどからの依頼を受けた時は万々歳だ。ただこうした先進国の多くは水中考古学がすでに盛んで、なかなか新しい未発掘の沈没船の学術研究はない。逆にクロアチアやコロンビアなどは報酬こそ低いが、これから研究がスタートする段階の調査が満載なのである。だから、依頼を拒否するという選択肢はない。

 それに、通常は飛行機代と食事、宿泊施設を依頼主が報酬とは別に用意してくれる。そのため発掘プロジェクトに参加している最中、私自身の支出は実に少ない。ただ、金銭的余裕ができるとすぐに高額な学術文献を買ってしまうので、自慢ではないが生活はかなりキツキツである。

 それでも、私の毎日は楽しい。なぜなら、「少ない給料で働いている」でなく「無料で海外旅行をしつつ、さらに小遣いも貰っている」と考えているからだ。これほどラッキーな職業はないと思っている。

沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う

沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う (新潮文庫 や 88-1)

 水中考古学について、何も知らなかったので新鮮に楽しく読みました。

 何よりも、著者がなんと興味深い方なのだろうと・・・

 

P7

 私は2009年からアメリカの大学院で船舶考古学を学び、現在は世界中で水中調査・研究を行っている。

 アメリカに留学した当初、私は英語が全くできなかった。マクドナルドでハンバーガーを注文することもできなかったし、半年間勉強しても、TOEFLの読解問題は1点しか取れなかった。だが、「こんなに面白い学問は他にはない!」とほれ込んだ水中考古学の勉強をしたい、その一心で英語を学び、アメリカの大学院に入学し、指導教官のもとに押しかけ、博士号を取得した。

 そして、大学院卒業後、世界中の海に潜り、船の発掘と研究をしている。

 

P78

 ・・・語学学校のオフィスを見つけ出した。クーラーの効いた室内に入ると、受付のアメリカ人女性が話しかけてくる。私には彼女が何を言っているのかが、さっぱり分からなかった。

 しかし運がいいことにその日、少し日本語の話せる韓国人の男性が入学の手続きにやってきていた。受付の女性に加え、何人もの講師が必死になって私とコミュニケーションをとろうとしている奇妙な様子を見て助けを申し出てくれた。彼の通訳によって、ようやく私に住む場所がないこと、知り合いが誰もいないことが彼女たちに伝わった。後から聞いた話によると、私のように住む所さえ決めずに渡米してくる学生は前代未聞だと、職員内で笑いの種になったそうだ。

 何もできない私の代わりに、語学学校の受付の女性が入学の手続きやアパートの手続きをしてくれた。しかし入居できるのは、授業が始まるのと同じく1週間後。それまでは、語学学校の先生が手配してくれた大学近くの安いモーテルに滞在することになった。

 モーテルに着いた頃には夜の6時を過ぎていた。前日からほとんど何も口にしていなかった私は、考えられないほど空腹だった。

 歩いて行ける距離にマクドナルドがあり、そこで食べることにした。店内は夕食時でとても混雑している。私が注文する番になり、体格の良い女性店員に何か尋ねられたが、彼女が何を言っているかは全然理解できない。

 実は、アメリカのマクドナルドではハンバーガー単品のことを「サンドウィッチ」、セットメニューのことを「ミール」という。そんなことは全く知らない私は「バーガーセットプリーズ」と完全な日本人発言の英語で懇願していたのである。

 徐々に店員の女性のいら立ちが顔に見え始め、繁盛している店内で私の後ろの注文待ちの列は、みるみる長くなっていった。

 私の心は、完全に折れてしまった。

 恥ずかしさと申し訳なさで、何も注文することなく店を飛び出す。その後、気を取り直して、近くにあったスーパーに行って軽食を買おうとした。ただアメリカのスーパーではレジ係が「Did you find everything,Okay?」などと、必ず気さくに話しかけてくれるのだ。・・・

 レジで店員さんに話しかけられた私は、怖くなって何も買わずにまたしても逃げ出してしまった。

 語学学校が始まるまでの1週間、モーテルの受付の横にあった小さなスナックとジュースの自動販売機だけで命を繋ぐことになった。部屋と自動販売機を行き来しながら「なんで自分は、こんな所に何も考えずに来てしまったのか?」と、情けなさと後悔で泣きながら過ごした。

 しかし、留学生活も半年が過ぎ、振り分けられた一番下のクラスの留学生相手なら苦労なく会話ができるようになっていた。

 成長した自分の英語力を試してやろうと、私は留学生向けの英語試験であるTOEFLを受けることにした。・・・

 ・・・成績が届き、スコアを確認してみると……。

 読解:1点

 目を疑った。TOEFLは全て選択問題だ。適当に答えても各セクションで5点は取れそうなものなのに、1点とは……。他の分野のスコアも散々で、合計でも30点かそこらだった。このままだと、いつまでたっても大学院入学など果たせない。徐々に近づいていたと思っていた水中考古学ははるか先にあった。

 次の日から、語学学校での授業後、深夜3時まで図書館で勉強する毎日が始まった。今思えばこの時が人生で初めての〝受験勉強〟だった。

 

P256

丸山 それにしても、大学院に入る前の語学学校時代はがんばりましたね。2年で大学院に入学できると思っていました?

山船 勉強し続ければ、いつかは入れると楽観していました(笑)。私は丸山さんみたいに学部から考古学を学んで院に……という正規のルートではなく、野球漬けの大学生活からいきなりアメリカの語学学校に行ってしまったので、自分が上っている階段が何段くらいあるのか分かってなかったんです。階段の高さがあらかじめ分かっていたら、諦めていたかもしれません。通った語学学校は目標としていたテキサスA&M大学の併設で、偶然、水中考古学の教授の奥さんが語学学校で教えていて、「コウタロウはバカだけど、やる気はある」とプッシュしてくれました(笑)。

丸山 その後、無事に大学院に合格、研究室に入るわけですよね。この頃に、一番ご自身の能力が伸びたのでは?

山船 どちらかと言えば、院へ正式入学する前の「お試し期間」だった仮入学の1年が最も辛かったですね。結果を出せなかったら日本に帰されるというプレッシャーから、幻聴や幻覚が出るくらいまで勉強しました。

あたらしい移住のカタチ

あたらしい移住のカタチ

 素敵だな~と思う方ばかりでした。

 

 福岡県糸島市に移住した藤田さん

P18

「こころとからだ、食べるもの。自然とともにあること、宇宙の一部であること。〝わたし自身のものさし〟を見つけること。これがくらすことの大きなテーマです。それを、この自然豊かな地で、家族とともに実践して、自分の生き方を通してそれを伝えていけたらと思っています」。

 

 山梨県北杜市に移住した内藤さん

P23

 何年か前に神奈川県横浜市菊名に「山角」というパン屋さんを訪れたことがあった。山角はパン好きのなかでは名の知れた存在で、駅から少し離れた、住宅街というわかりづらい場所にあったにもかわらず、ぼくが訪ねたときも先客がいて、すでにほとんどのパンが売れてしまっていた。

 ・・・

 山角のオーナー・内藤亜希子さんが、故郷である神奈川県から山梨県へと移住したのは今から5年ほど前。34歳のときのことだ。ふとしたきっかけで清里にあるホテルのチケットを知人から譲り受け、訪れてみたのがこのエリアとの出会いだった。「旅行で来たんです。そのときに辺りをぐるっと見てまわったら、雰囲気がすごく気に入って。その後、何度も来るようになりました」。

 ・・・

 ・・・北杜市の四季折々を何度も訪ね、どんな町なのか空気感を肌で直に感じ取り、自分に合いそうだと判断して、移住を決断した。・・・「パン屋だったらどこでもできるし、ちょっとこの辺いいんじゃない?という感じで移住しちゃいました。不安は特になかったですね」。

 ・・・「パン屋の前はカフェで働いてたんです。パンも修行したわけではなくて独学です。元々これをやりたいとか強く思ったことがなくて、風の吹きまわしでここまで流れてきた感じなんです。パン屋は自分の暮らしがしやすいからやっていて、今は絵も描くし、料理もなんでもします。山が好きなのでギアについて学びたくて、アウトドアショップでアルバイトをしたり、野良仕事のお手伝いもしています」。

 ・・・

 ・・・今年、内藤さんにとってまた新たな展開が待っている。年内にオープン予定のゲストハウスの敷地内に、お店を持つのだ。

「仕事や暮らし、遊び方も変化し続けたいと思っています。1年先のことなんて本当に想像もできないけれど、想像をしていないところにいくのが楽しいんです。仕事に関しては次のステージに向かって動いているけれど、今度は1から10まで自分一人で完結するパン屋じゃなくて、山梨で出会ったユーモアある人たちと一緒につくっていきたい。彼らの得意なところは彼らにお任せして、適度に接点を持ちながら、パン屋だけどパン屋じゃない、何者か、何屋かわからないミックスジュースみたいなお店をしたい。そしてせっかく近くに山があって豊かな自然のある最高のフィールドに暮らしているのだから、もっともっと自然を楽しむ暮らしにシフトしていきたいです」。

 ・・・

 ・・・「もし明日、何か面白い話があったらそっちに移住しちゃうかもしれないです。暮らすのは都会じゃなければどこにでも行けます(笑)。でも今はこの場所が好きなので、ここにいたいと思っています」。

 

 山口県長門市に移住したいのまたさん

P81

 山口県長門市の山間部にある俵山温泉。・・・そのささやかな温泉街からまた少し離れた場所に、いのまたせいこさんのお店はある。見渡せば周囲は山ばかり。畑の脇を通って石段を登ると、薄いブルーのかわいらしい扉と、ちいさな看板に「ロバの本屋」の文字。・・・

 東京都出身のいのまたさんは、中学生の頃から「東京以外で暮らしたい」と考えていたそうだ。・・・だから専門学校を卒業したらすぐに新潟へと移り住んだ。「新潟を選んだのはおばあちゃんが住んでいたから。趣味でやっていた陶芸も続けたかったので、自営業をするのが現実的かなと思い、調理師免許を取り、おばあちゃんの家のそばに親戚の大工のおじさんに建物を建ててもらって喫茶店を開いたんです」。

 ・・・

 3年ほど喫茶店を営んだのち、「次は暖かいところに住みたい」と地図を開き、早速一番南にある沖縄を目指すことにした。・・・さらに石垣島へと渡ってみた。そこは程良く田舎で、本好きのいのまたさんにとって大切なポイントの、良い図書館もあった。だから移住先を石垣島に決めた。

 東京の実家に戻り、バイクで持てるだけの荷物を持ち、家も仕事も決めずにフェリーで石垣島へと向かった。・・・

 ・・・あるとき自宅の庭で焚き火をしていると、煙の向きが悪かったのか、隣家の住人にひどく怒られてしまう。・・・「この場所で暮らすことは難しいかな」と思い、家を出ることに。その後は納得のいく家をゆっくり探そうと、テントを買ってキャンプ場へ。テントの前にブルーシートで屋根と簡単な台所をつくり、なんと4~5か月ほどキャンプ場での暮らしを続けたという。一方、仕事はたまたま取材に来た石垣島の出版社がスタッフを探していて、本づくりの経験は全くなかったけれど、出版社で働くことになった。家賃2万円ほどの家を見つけ、それからは会社勤め。「石垣島に来てから物欲が全くなくなって、一人暮らしなら、7万円あれば暮らせるなと思って、それ以上はわざと働かないようにしていました」。

 ・・・

 いのまたさんの話を聞いていると、よく出てくる言葉に「とりあえずなんとかなると思って」、というのがある。例えばバイク一つで石垣島に移住することとか、キャンプ場で暮らすことも淡々と語るから、ついなんでもないことのように聞こえてしまうけれど、客観的に考えればちょっとすごいことだ。それでも軽々と実現させてしまうのは、楽観的なようでいて、実はしっかりと現実を見据えているからではないだろうか。この環境なら、このくらいの収入があれば自分が心地良く暮らせる、そしてその金額を得るにはどのくらい働けば良いのか、というモノサシをしっかりと持っているのだ。

 ・・・

 ・・・そしていのまたさんは再び、地図を開いたのだ。

「前に住んでいた石垣島は離島だったから、今度は陸続きの場所で、家賃は2万円まで」。・・・家賃2万円は、「2人暮らしなら10万円あれば楽しく暮らせるし、貯金もできる。それぐらいの金額だったらアルバイトでもなんとかなるだろう」と思ったから。その条件で、物件探しをスタートした。

 ・・・

 借りた家は20年ものあいだ空き家だったので、傷みがかなり激しかったけれど、和室2室は使える状態だったので、そこで寝泊まりしながらコツコツと改装をした。台所にあった井戸は、夏の日照りで枯れてしまい、しばらくは近くの川で水浴びをして、水を汲んでくる生活。全壊だったトタン屋根は改修し、半年ほどでおおむね家がなおってきたところで、「貯金も尽きてきたし、働きながらゆっくりなおしていこう」ということに。

 その頃は、お店をやるつもりはまだなくて、「里山ステーション俵山」という地域交流施設でジャムやお弁当をつくるアルバイトをしながら暮らしていた。・・・

新しい場所で働く時に大切なこと

1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人 1キロ100万円の塩をつくる (ポプラ新書)

 「新しい場所で働く時に大切なことって、『私は仕事ができる』ということを見せることじゃない」、このことは見落とされがちなような気がして、印象に残りました。

 

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 2011年11月。斎藤まゆさんは、フランスのシャル・ル・ドゴール空港から全日空ANA)の飛行機に乗り、日本に向かっていた。彼女はその2年前、山梨で誕生したばかりのキスヴィン・ワイナリーのオーナー、荻原康弘さんからスカウトされて、同ワイナリーの醸造家に就いた。しかし、自社醸造所の完成が遅れていたため、フランス・ブルゴーニュ地方のシャブリ地区にある名門ワイナリーと、ピノ・ノワールが有名な産地イランシーのワイナリーで、ブドウの収穫と醸造を学ぶ修業に出た。1年以上にわたったその修業を終えて、帰国の途に就いたところだった。

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「いつか、自分がつくったワインを飛行機のファーストクラスにのせたい。ビジネスクラスじゃなくて、絶対にファーストクラス!」

 それから9年の月日が過ぎ、迎えた2020年6月。全日空の国際線ファーストクラスで、日本のブドウ「甲州」を使ったANAオリジナルワインの提供が始まった。・・・ワインをつくったのは、斎藤さんが醸造家を務めるキスヴィン・ワイナリー。・・・

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 ・・・2000年、大学2年生の夏休みに・・・ほかの学生たちと出かけたボルドーブルゴーニュコルシカ島を巡る旅での出来事だった。

 老夫婦が経営するボルドーの小さなシャトーに立ち寄ったその日は、からっと晴れ渡り、濃いブルーの空が広がっていた。

 老夫婦は「この場所であなたたちと出会えて、一緒に乾杯できることをとても嬉しく思います」と挨拶し、ブドウ畑で自分たちのワインを振る舞った。爽やかな風が吹き、青々としたブドウの葉が揺れる。老婦人は穏やかに微笑みながら、学生たちと言葉を交わしていた。その瞬間に、心を奪われた。

「・・・生きるということについて、とっても迷っていた時期でした。だから、ワインづくりというひとつの仕事をしながら年を重ねてきたおばあちゃんを見た時に、素敵だな、私もああいうおばあちゃんになりたいなと思ったんです」

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 斎藤さんが目指したのは、農業分野では世界トップクラスとして知られるカリフォルニア州立大学フレズノ農学部のワイン醸造学科。1400エーカー(およそ東京ドーム122個分)のキャンパスを誇り、校内に農場や牧場、そして受賞歴のあるワイナリーを持つこの大学は、素人でも5年間でワインの専門家に育て上げる体系的なプログラムを持っていた。

 ・・・入学した斎藤さんは、・・・入学当初から、ある目標を定めた。

「うちの学科は伝統的に、卒業する学生のなかでひとりだけ、ワイナリーのアシスタントとして1年間、学校に残ることができるんです。学校がビザを取ってくれて、給料をもらって働ける。どうしてもその枠に入りたかったんです。業界に出ると、失敗は許されません。でも、大学のワイナリーは学生がいろんなことを試行錯誤するためにあります。アシスタントになれば、自分が失敗をしながら学ぶことができるだけでなく、学生の失敗も間近に見ることができるじゃないですか。そこから得るものはとても大きいと思って」

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 この環境を求めて、ワイン醸造学科にはモチベーションの高い優秀な学生が集まってくる。そのなかで「ひとり」に選ばれるためにはどうしたらいいのだろう?斎藤さんは、心に決めた。雨の日も、風の日も、毎日のように校内のワイナリーに顔を出し、掃除でも雑用でもなんでも手伝った。大学の指導陣だけでなく、ワイナリーのスタッフに「熱心で使える若者がいる」と印象付ける作戦だ。

 1年生の時からワイナリーに通い詰め、大学生活が5年目に入ったある日のこと。いつものようにワイナリーに足を運ぶと、専任のスタッフが微笑みながら声をかけてきた。

「まゆ、アシスタントにならない?」

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 ・・・2010年9月、斎藤さんはフランス・ブルゴーニュ地方の最北に位置するシャブリ地区で1792年よりワインをつくっている名門ワイナリー「ドメーヌ・ジャン・コレ」にいた。・・・醸造家としての修業先を紹介してもらったのだ。

 フランスへ向かう機内で、斎藤さんはこう考えていたという。

「私は相撲部屋に入るんだ」

 日本にやってくる外国人力士はみな、同部屋の日本人力士たちと寝食を共にしながら、日本語や文化を学び、心技体を鍛え、日本の国技である相撲で成功を目指す。翻って、ナンバーワンのワインの産地といえば、フランス。その厳しい世界で認められるためにはどうすればいいかを考えた時に、子供の頃から相撲が大好きな斎藤さんは、「相撲部屋に入る外国人力士」を自分に重ねた。

 ・・・手伝いは当初、ブドウの収穫と醸造で最も忙しい9月、10月の2カ月間だけ、という話だったが、結果的に1年以上をフランスで過ごすことになった。オーナー一家から「もうちょっといない?」という引き止めが続いたのだ。

「多分、新しい場所で働く時に大切なことって、『私は仕事ができる』ということを見せることじゃないんです。それよりも、もともと働いている人たちが仕事をしやすいように、彼らのペースに合わせてサポートをしたり、言われる前に掃除をしたり、頼まれもしないのに毎日畑に足を運んでブドウの様子を報告する。私はそういうことをアメリカでもひたすらやって喜ばれたし、フランスでもうまくいきました」

 能力をひけらかすのではなく、チームの一員として誰よりも懸命に働く。これが「相撲部屋に入った外国人力士」である斎藤さんが選んだ道だった。

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 よく気がつく働き者の日本人を、オーナー一家はよほど気に入ったのだろう。「せっかく来たんだから、赤ワインの勉強もしてくといい」と、シャブリの南西、ピノ・ノワールが有名な産地イランシーにあるワイナリーの仕事も紹介してくれた。・・・

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 2017年6月13日。斎藤さんは、胸の鼓動が速まるのを感じながら、目の前の男性の反応をうかがっていた。

 ・・・ジェラール・バッセさん。第13回世界最優秀ソムリエコンクールの優勝者であり、ワイン界の最難関資格マスター・オブ・ワインとマスター・ソムリエの資格を持つ、斎藤さんいわく「ワイン界の神様みたいな人」だ。

 バッセさんは、斎藤さんが醸造した白ワイン「キスヴィン シャルドネ 2014」を口に含むと、次の瞬間、頬を紅潮させながら小さく叫んだ。

「なんだこれは!うまいじゃないか!」

 見るからに前のめりになったバッセさんが、斎藤さんに尋ねた。

「このワインは何本つくっているの?」

「1700本です」

「OK、1500本、俺が買う」

 え?斎藤さんは一瞬耳を疑ったが、バッセさんの眼差しは真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。ガッツポーズしたくなる気持ちを抑えて、頭を下げた。

「ごめんなさい、売り切れなんです」

「なんと……」

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 会合が終わり、少しフワフワした気分で会場を後にした斎藤さんと荻原さんは、山梨の塩山へ帰路に就いた。・・・一息つきながらスマホを開き、ツイッターを確認した時、それまでの高揚した余韻が一気に冷めた。

 バッセさんが、「ユニークでセンセーショナル」「才能豊かなワインメーカー」として、「Mayu Saito」の名前をツイッターに記していたのだ。新興ワイナリー、キスヴィンの名とともに、醸造家「Mayu Saito」の存在は、世界に拡散された。・・・