他者と生きる

他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学 (集英社新書)

 

 義務や責任が、もともと個人ではなく地位や肩書に付随していたとは、言われてみればそれはそうか、当たり前に思っていることで疑わしいことはいっぱいあるなあと・・・

 

P188

 ・・・個人を所与とする見方に疑問を抱いていたのがフランス人類学の基礎を形作ったモースであった。モースは1938年の論述において、「個人」がヨーロッパにおいて自明なものになっていく過程に目を向けている。・・・

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 モースによれば、「意識的で独立的自立的かつ自由にして責任ある存在」という、西洋社会の基盤となる人の概念、ここで言うところの個人主義的人間観の萌芽は古代ローマにまで遡る。それ以前、あるいは世界の他の場所にそのような観念は存在していなかった。義務や役割といった日々生活する上で課されるあれこれは、あくまでも集団の中に存在する身分、地位、肩書きといったものに付随するものであって「個人」に内在するものではなかったのである。

 しかし法による統治が古代ローマにおいて始まったことをきっかけに、統治対象としての人の観念が芽生えてくる。つまり義務や責任といったこれまでは身分、地位、肩書きに付随していると考えられていた諸々は、これら個々人に直接に帰属すると考えられるようになったのだ。この逆転はいっけん不思議なことに思えるが、そうでなければ法による統治は完遂しない。

 このようにして生まれた人についての新しい観念は、のちにキリスト教、17、18世紀の哲学を経由し、さらなる変貌を遂げることになる。この段階で、人格を宿し意識を持った自我の概念が加えられたのだ。古代ローマにその萌芽を持つ、自由にして責任を持った法の統治の対象としての自我を持つ人の概念は、19世紀の初頭にようやく成立した、というのがモースの提言である。

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 第6章で提示した現代日本社会において頻回に利用される「自分らしさ」及びその類いとしての「患者の意思の尊重」「ありのままのあなた」といったフレーズは、個々の身体の中にその人の本質が眠っており、それを十全に引き出すことでより良い社会が到来したり、理想のケアが実現したりするという個人主義的人間観への私たちの信念と希望をよく表す言葉たちである。平成になって見られた「自分らしさ」の大増殖は、日本社会が個人主義的人間観を受容するようになり、その実現に救済を求め始めたゆえといえそうだ。

 しかし当然のことながら、このような「自分らしさ」の礼賛においては、モースとデュモンが注意深く分けて論じた「この私が存在する」という自分の存在についての実感と、法や道徳の中で長い時を経て醸造された「個人の観念」は分けられて考えられてはいない。これらふたつは分けられることなく「自分らしさ」という言葉の中にぐちゃっと投げ込まれていると考えるべきであろう。

「想像の共同体」の著者であるベネディクト・アンダーソンは、国家とそれを支える国民という概念が、国家と国民という概念を実体化させるさまざまな制度や測定尺度、それらを想起させる言葉とイメージが人々の間に流布したことによって、「国家と国民は確かに存在する」という想像力を人々が持つに至ったと述べる。これと同様に、「自分らしさ」が確かに存在するのだという「自分らしさ」への信念も、個人主義的人間観を可能にする制度、分類、イメージ、そして、それらによって想起・実践され、その回路を経て実体化された結果であることをモースとデュモンの提言は間接的に私たちに教えてくれる。