ガザ、西岸地区、アンマン

ガザ、西岸地区、アンマン 「国境なき医師団」を見に行く

 こちらの本も読んでみました。

 

P92

 ヤセル・ハープ。45歳。16歳から3歳まで3人の娘と2人の息子を育てる父親だ。

 ガザ出身で2004年からMSFで働くようになったが、それまで人道援助団体があることさえ知らなかった。自分の日々の目的は家族を養うことだと思っていたけれど、それでも2005年から紛争被害者を車に乗せて病院への送り迎えを繰り返すようになって、次第に意識が変わった。

 2008年には砲撃で多くの市民が巻き添えになった。ヤセルさんは決断をし、外国人スタッフを検問所まで迎えに行く仕事を引き受けた。リスクのある仕事だったが、それがガザにとって大切なことだと思ったからだ。その後も家を失った人々、国外に出られず学校へ避難する人々を運び続け、資料や水や衣服を配る仕事も増やした。

 ・・・

 ガザ市民に希望はない。どうすることも出来ない。海にも軍がいる。見張られて出て行く先もない。明日の見通しがひとつもないんだよ。私たちは助けが欲しいというのに。

 ・・・

 パレスチナの民は平和を求めているだけなんだ。自分たちの国にいて、自分たちの自由が欲しい。それだけだよ。どうかガザの外にいる人々に伝えて欲しいんだ。平和のために抗議をしてなぜ撃たれなければならないのか。少しの時間でいいから、どうかどうかガザに生きている私たちのことを考えてください。

「お願いします。そう伝えてくれませんか」

 ヤセルさんの目には涙が浮かんでいるように見えた。

 俺は胸の詰まる思いで、彼の目をしっかり見て答えた。

「必ず日本へ帰ってお話を伝えますから」

 ・・・

 そこで俺はなぜ自分が生きているのかわかった気がした。彼らの伝言を運ぶためだった。

 40過ぎのある冬、俺は火鉢に凝っていて知らず知らず一酸化炭素中毒になった。夕方から赤ワインも飲んでいたから、どうしてたまたま夜中に目を覚ましたか、いまだに謎だ。いつもなら朝までぐっすり寝ていたのだから。その夜でいえば、死ぬまで。

 俺はベッドからずり落ち、トイレに這って行き、便座に座ってようやく自分がおかしいのに気づいた。妻を呼んだが返事が曖昧だった。自分たちは死にかけているとわかった。

 そこから救急車を呼ぶまでがまさに命がけだった。・・・

 救急隊員は勇敢にも部屋に踏み入った。同時に刑事も入ってきた。心中を疑われたのだとあとで理解した。俺たちは大学病院に運ばれ、別々の部屋に入れられた。

 あの時に死ななかったことが本当に不思議である。いつ考えても奇跡に思える。それ以来、自分の仕事は変わった。儲けものの余った年月だからより好きなことしかしなくなったし、自分のためというより自然に人が喜ぶことが優先になった。面白いものである。

 そしてついにヤセルさんが気づかせてくれたのだ。俺がMSFの取材に血道を上げ、どんな仕事より優先してそれを面白がり、原稿を熱心に書き続けているのは、自分がたまたま命を永らえた存在だからであり、その折に医療機関の方々に世話になったからなのだ。

 ・・・

 キャンディダ・ローブ、南イタリア出身。

 MSFには2017年から参加し、コミュニケーション・マネージャーを担当。つまり・・・広報である。

 もともと10代後半にジャーナリストを志望したが、じきその道は厳しいと考え、人道援助活動に注力することになった。

「なぜならこの活動は何かを変えることができるから!医療だけでなくて、広報だって証言活動が出来るじゃない?ジャーナリズムが必ずそうとは言えない。普通では会えない人々にも会えるしね」

 ・・・

 そんな彼女はまず2012年にイタリアのNGOに入り、南スーダンコンゴ、ナイジェリア、セルビアギリシャなどで仕事をして、2週間前から来てみたかったガザにいるのだという。10ヵ月のミッションだ。

「ジャーナリストはニュースを追う。人道主義NGOは声無き人に寄りそう。紛争でも戦争でも災害でも必ずそう。そして私は後者を選んだんだよね」

 ・・・

「ジャーナリストなら悪い方を悪く言うべきだけど、NGOだとそうもいかない。だってその国から強制的に追い出されてしまう場合があるから。そんなことになったら困るのは患者さんでしょ?だから証言活動も気を遣う。とはいえ完全な中立でいるのは難しいよね。常に政治がからんでくる」

 ・・・

 最後にキャンディダは、宿舎の屋上に大きくMSFのロゴが描かれているのを示した。

「爆撃を避けるためのしるし。これを見たら攻撃しないように要請してるの。どちらの陣営にも我々の存在は知られているからね」

 ただし、いつどちらが裏切るかはわからない。事実、アフガニスタンやシリア、イエメンでMSFの施設が爆撃されているのを、その場にいる誰もが知っていて沈黙を続けた。

それぞれの・・・

「国境なき医師団」を見に行く (講談社文庫)

 このお二人へのインタビューも印象に残りました。

 

P435

 目のくりくりした、笑顔の優しいファビアンはアヴィニョン生まれで、今回が初ミッションという初々しいスタッフであった。

 もともとパリでソーラーシステムの仕事をしていたというから、環境問題に興味があったのだろう。WATSAN(水と衛生)、下水システムを学生時代に学んだ彼は、やがて私企業に入って働いた。けれど、日に日に不満が募ったのだという。

「お金のことばっかり考えるのが嫌になったんです」

 とファビアンはにっこり笑った。

 信頼出来る先輩がいて、すでに人道援助組織で6年活動していた。ファビアンもそういう仕事がしたいと思った。

 企業を3年でやめて、MSFに入った。彼からは満ち足りた活動による心の「張り」のようなものが光みたいに放射されていた。

 ・・・

「人道援助組織は他にもありますけど、なぜMSFだったんですか?」

 するとファビアンは身を乗り出して答えた。

「MSFは問題が起こった場所に素早く入りますよね。おかげで成果がはっきりと刻々と見えるじゃないですか。それが刺激的なんです」

 ・・・

 俺はさらにその奥へ質問をさし向けた。

「ファビアン、なぜ人道援助だったんですか?ボランティアがしたかった理由というか……」

 ファビアンはそこで初めて少し考えた。困っているというのではなく、肝心な話だから正確な言葉を選んでいるという感じだった。

「たとえば、水はお金持ちのためだけにあるんじゃなく、皆で分けあうべきものですよね。なければ死んでしまうんだから」

 まず彼はそう言った。・・・

「水は金儲けのためにあるんじゃなく、人の生活の質を上げるためにこそある。僕はそう思うんです」

 ・・・

「とはいえ、たいした知識も経験もまだないんです。でもある分だけ役に立てるなら、収入よりも自分にはそれが大切だと思っています」

 

P440

 レベッカがMSFに参加したのは2012年、それまで彼女は母国で看護師、助産師を務めており、それを2011年にやめてもともと高校大学で学んでいたフランス語の猛特訓を受けたのだという。MSFの活動地でフランス語が使われている率が高いからだ。

 ・・・

「これまでどんな地域に行かれましたか?」

「そうね、コートジボワールラオスには2回、南スーダン、ネパール、またコートジボワール、そしてここウガンダでミッションは7つ目。ね、フランス語圏が多いでしょ。中でもコートジボワールではスタッフ全員がフランス語しか話さなかったので、わたしには大変でした」

 ・・・

「で、どうしてMSFに入られたんですか?」

助産師をしている時からもちろん知ってました。アメリカでこの組織は尊敬されてますから。それでなぜわたしが助産師になったかというと、わたしは旅行が好きであちこち行ってたんですけど、ある時ミクロネシアで出産に立ち会ったんです。本当に素晴らしい仕事だと思いました」

 感動したレベッカアメリカに戻って助産師の勉強を始めた。

「それまでわたしは中学の教師だったんです。科学を教えていて」

 彼女はその感受性のまま、自らの人生を形作っていた。教師から助産師へと、学びを絶やさない彼女は妊産婦ケアに関しても修士の資格を取るに至り、やがてそのキャリアを人道援助に結びつけていく。

 60歳の年だった。

「その年齢になった時、機会は今しかないと思った。そして、わたしは決断しました」

 まっすぐに俺を見て、レベッカはそう言い、柔らかく笑った。まるで自分の決断を俺に感謝するように。少なくとも彼女の中で、人生の変化は自分以外の何かが起こしていることだという感覚があるのだろう。

共に進む

「国境なき医師団」を見に行く (講談社文庫)

 ここも印象に残りました。

 

P355

 さて、この活動を取り仕切っている「国境なき医師団」側のトップ、ジョーダン・ワイリーはどんな人物か。・・・

 ・・・

 米国ポートランド出身。もともとは一般病院でスタッフ・トレーニングや災害救急マネジメントなどの仕事についていたという。地震、テロ攻撃など多数の被害者が出るような事態で、病院はどのような対処をすべきかの計画立案や訓練をしていたのだ。

 さらに遡れば、彼はシングルマザーだった母親のもとで育ち、6人の弟と1人の妹を持つ身として家計をどう助けるかを考えていた。・・・

 はっきりと道が決まったのはなんと11歳の時。テレビでアフリカの人道危機を知り、自分が役に立てればと思う。そのあと何年もしてから友達がMSFに参加してアフリカに行き、ジョーダンを誘った。すでに病院の仕事をしていた彼は、一も二もなくという感じなのだろう、2007年にはMSFに登録。

 翌年にはナイジェリアに飛んでいた。

「このマニラで13ミッション目だね」

 ・・・

 一番短いもので2ヵ月、ナイジェリアでの緊急援助で500万の子供たちに髄膜炎のワクチンを打つという予防接種のロジスティック(運送や管理担当)をつとめ、一番長いのはもちろんここマニラでの2年だという。

 さらに2010年には俺も訪ねたハイチに偶然ミッションで入っており、つまり大地震を体験してしまったのだそうだ。

 それは小さなアルマゲドンだった、とジョーダンは言う。

「周囲のビルもMSFの病院も崩れ落ちた。人材も医療品もMSFとして確保されているのに、残念ながら病院がないんだ。それでロジスティシャンとして場所を緊急に設計して、木の板でベッドを作ったり、シーツで天井を作った。ない物はがれきの中から拾ったよ。コンテナの中で手術もしてもらった」

 そこまで言ってジョーダンはふうと息を吐き、俺を見た。

「7人のスタッフを亡くした。そして、たくさんの患者を亡くした」

 とジョーダンは表情を変えずに言った。

 災害などの緊急援助にあたったスタッフは必ず休ませる、とは菊地寿加さんにも聞いていた通りだ。地震後10日間働きづめに働いたジョーダンを、MSF活動責任者は母国に戻した。彼本人はまだまだやることがあると反発したが、

「今思えば正しい判断だったよ」

 とジョーダンは俺たちにはっきり言った。なぜかを話さない彼だったが、PTSDがあったに違いない。そのままミッションを続けていれば、彼は壊れかねなかったということだ。

 それでも2年後、ジョーダン・ワイリーはハイチのミッションに戻る。彼の責任感はやり残したことをそのままにしておけなかった。そこに戻る仲間もいた。

 シリアにも何度か入った。・・・

 マニラのひとつ前にはチャドにいた。・・・

 「僕自身は今回の活動を去年の10月から始めて、歩みひどく遅いながらもあきらめずに計画を前に進めている。MSFとしてもこれはチャレンジなんだ、セイコー。今までのように〝絆創膏を貼る(事態の根本的な解決はその国にまかせ、緊急援助のみに集中する)〟だけでなく、問題の内部に自ら入ること。しかも」

 とジョーダンは姿勢の癖でかがめている身をさらに小さくして俺たちに近づいた。

「フィリピンは女性政治家も多いし、女性の力が強い。アメリカも日本も見習うべきだ。ただしリプロダクティブ・ヘルスが弱い。そこをどう援助していくか」

 つまり彼はもちろんフィリピンの問題にどう関わるかを配慮しながら、同時にその国のよさを世界にどう輸出するかも考えているわけだった。世界の女性の権利を健康から考える。ジョーダンはその一助となりたいのだ。

 そうした目標の中でこそリカーンは自国の女性問題に長く力を尽くしてきた団体として、MSFの導きの糸になる。

 さらにジョーダンはこう言った。

「他にも援助団体はあるし、リカーンは決して有名ではない。そのへんの道で聞いても知らない人はたくさんいるだろう」

 熱き男ジョーダンはそれ以上ないほど身を乗り出す。

「だけど、スラムで彼らを知らない者はいない。ここが重要なんだ。困窮した人々に絶対的な信頼がある」

 彼の視点は明確で、事の奥まで見ていた。

「我々は彼らと共に進むんだよ」

 さて、インタビューの最後に、谷口さんがこう聞いた。

「ジョーダンはどうしてMSFを選んだの?」

 するとジョーダン・ワイリーは答えた。

「自分が何をしたいのか、ここにいるとそれがわかる」

 ・・・

 ・・・

 彼らのキャリアをくわしく聞いていくたび、「国境なき医師団」のリアルな活動状況、参加者の人間性、問題点の数々がわかった。・・・

 ・・・

 彼らは困難を前にするとたいてい笑う。

 そして目を輝かせる。

 そうやって壁を突破するしかないことを、彼らは世界のどん底を見て知っているのだと俺は思っている。

敬意

「国境なき医師団」を見に行く (講談社文庫)

 印象に残ったところです。

 

P208

 ・・・プレハブの施設が建っていた。施設の入り口には白いアウトドア用の屋根が張ってあって、様々な形の椅子が置かれていた。・・・

 蒸した施設の中にはけっこう人がいた。それは簡易的な医院で、訪ねてくる患者さんに薬を処方したり、体温や血液を検査したりする場所だった。医師の他に、もちろん例の文化的仲介者(カルチュラル・メディエーター)もいた。アラビア圏担当、アフガニスタン担当と分かれて、彼らは難民の方々と医師の間をつないでいた。

 ・・・

 ・・・ヒジャブをかぶった黒い長衣の母親が訪ねてきた。彼女の夫も脇にいた。夫婦は半ズボンの子供を連れていた。母親が施設内に入っていくと、父と子供がその場に残った。

 その時だ。白い屋根の下で椅子に座っていた、さっき俺たちを車でそこに連れて来てくれた小太りの男性が跳ね上がるように立ち上がって、席を彼らに譲ったのだった。足りないもうひとつの椅子はすぐに別のスタッフによってととのえられた。父親は微笑んで頭を下げ、子供をまず座らせた。スタッフたちもほっとしたような表情で彼らを見、おそらくカタコトのアラビア語で話しかけたりし始めた。そこには簡単には推し量れないほど深い「敬意」が感じられた。

 俺はこれまで何度か〝難民の方々〟という言い方をしてきた。それは谷口さんが必ずそういう日本語に訳すからだったのだが、ピレウス港の小さな医療施設の前で俺は、MSFのスタッフが基本的にみな難民の方々へのぶ厚いような「敬意」を持っていることを理解した。

 ではなぜだろうとその場で考えた。そうせざるを得ないくらい、彼らの「敬意」は強く彼らを刺し貫いていたのだ。

 それは憐みから来る態度ではなかった。むしろ上から見下ろす時には生じない、あたかも何かを崇めるかのような感じさえあった。

 スタッフたちは難民となった人々の苦難の中に、何か自分たちを動かすもの、あるいは自分たちを超えたものを見いだしているのではないかと思った。目の前で見た椅子の出し方に関して、最も納得できる考えがそれだった。

 施設を訪れる母親は毅然としていた。すでに傷つけられたプライドを、しかし高く保ち直している立派な姿だと俺も感じていた。彼ら彼女らは凄まじい体験を経ていた。長い距離を着の身着のままで移動し、たくさんの不条理な死を目の当たりにしたはずだった。父も子もそうだった。

 ・・・

 俺が電流に撃たれるようにしてその時考えたことは単純だった。

 彼らは死ななかったのだった。

 ・・・苦しくても苦しくても生きて今日へたどり着いた。

 そのことそのものへの「敬意」が自然に生じているのではないか。

 ・・・

 ・・・

 そこに美しい長衣をまとった女性が青を基調とした派手なヒジャブを頭にかぶって、これまた身なりのきれいな子供と共にゆったりと歩いてきた。どう見ても中流以上の暮らしをしてきた人だった。しかも、移動の苦難を経てもなお、身だしなみを変えずにいるプライドを彼女は持っていた。

 尊厳それ自体が歩いてくるように感じた。

 まさに前に書いた「敬意」を自動的に持つ以外ない、それは悠々たる姿であった。

 それで俺はさらに気づいたのだった。

 彼ら難民が俺たちとなんの違いもないことに。

 通常、難民と聞くと俺たちはまず経済難民を想像してしまう。貧しいがゆえに活路を他に求め、国を渡ってくる人々だ。むろん彼らも支えられるべきなのだが(ほとんどの場合、彼らの貧困には彼ら自身なんの責任もないのだから)、俺がその時目の前にしていたのは戦乱、紛争で理不尽にも家を爆撃され、街を焼かれ、銃で追い立てられた人々なのだった。

 もし日本が国際紛争に巻き込まれ、東京が戦火に包まれれば、とすぐに想像は頭に浮かんだ。

 明日、俺が彼らのようになっても不思議ではないのだ。

 だからこそ、MSFのスタッフは彼らを大切にするのだとわかった気がした。スタッフの持つ深い「敬意」は「たまたま彼らだった私」の苦難へ頭を垂れる態度だったのである。

 青い衣を風になびかせて自分の前を通りゆく女性を視界に入れた俺の脳裏に、「同情」という言葉が続いて浮かんできた。

 いかにも安っぽい感情として禁じられがちな「同情」。しかしギリシャにいる俺の頭には、それは同時に「compassion」という単語になった。気持ちを同じくすること。思いやり。

 ・・・

 ・・・「たまたま彼らだった私」と「たまたま私であった彼ら」という観点こそが、人間という集団をここまで生かしてきたのだ、と俺は思った。あるいは「彼ら」を植物や動物や鉱物や水と置き換えれば、それはインドでは輪廻転生になる。・・・

 ・・・

 時間と空間さえずれていれば、難民は俺であり、俺は難民なのだった。

「国境なき医師団」を見に行く

「国境なき医師団」を見に行く (講談社文庫)

「俺は『国境なき医師団』の広報から取材を受けた。・・・で、向こうから取材を受け始めて10分も経っていなかったような印象があるのだが、俺は団の活動が多岐にわたっていることを知り、そのことがあまりに外部に伝わっていないと思うやいなや、〝現場を見せてもらって、原稿を書いて広めたい〟と逆取材の申し込みをしていたのだった。」ということで、いとうせいこうさんが、各地を巡り、感じたことなどが書かれています。

 

P72

 街の中のチカイヌという地域にある宿舎で、週末の屋上パーティがあるという・・・

 いかにも気楽なように見えるが、催すのも派遣スタッフ、出席するのも派遣スタッフ。つまりそれが彼らのストレスマネージメントのひとつなのだ、とわかった。

 ・・・

 興味を持って出かけることにして本当によかった、と今つくづく思う。

 僕はそこで各国からのMSFスタッフに一気に会い、話をし、何が彼らを突き動かしているのかを知ることになるのだから。

 ・・・

 名前をカール・ブロイアーと言った。年齢は64だったと思う。

 痩せていて身軽で背が高く、控えめでにこやかな人だった。

 フェリーと共によくグリルの火の具合を見ていて、気づかぬうちに立って確認していつの間にか戻っているという感じで、自分を前に押し出すタイプではないようだった。

 ハイチの現状について、カールは英語でゆっくりと伝え間違いのないように気をつけている風に語った。ハイチに足りないものは多かった。施設の不足による医療の届かなさ、政府のインフラ対策の少なさ、人々の衛生への意識など。しかしカールはそれを責めるのではなかった。もしもっとあれば、その分だけ人の命が助かるのにと静かに悔しく思っているのだった。

 まるで若者が理想に燃えるかのように、還暦を過ぎたカールは希望を語り、しかし終始にこやかに遠くを見やっていた。その暗がりでの表情の柔らかさを、俺は今でも思い出すことができる。・・・

 俺はカールがこれまでどんなミッションを経てきたのか聞きたかった。

 もしよければ教えていただけませんか?

 すると微笑と共に答えが来た。

「初めてなんですよ」

 俺は驚いて黙った。

「これが生まれて初めてなんです」

 カールはまるで自分に孫が出来たかのような初々しい喜びをあらわしてさらに言った。

「私はエンジニアとして、ドイツの中でたくさんの仕事をして来ました。あっちの会社、こっちの会社とね」

「あ、お医者さんでなく?」

「そう。技術屋です。それで60歳を超える頃から、ずっとMSFに参加したかった。そろそろ誰かの役に立つ頃だと思ったんですよ。そして時が満ちた。私はここにいる」

 たったそれだけのことを聞く間に、俺の心は震え出してしまっており、とどめようがなかった。暗がりなのをいいことに、俺はあろうことかカールに顔を向けたまま涙を流してしまっているのだった。

 ・・・

「ご家族は、反対、しませんでしたか?」

「私の家族?」

 ・・・

「彼らは応援してくれています。妻とは、毎晩スカイプで話しますしね。いつでもとってもいいアドバイスをくれるんです。子供たちもそうです。私を誇りにしてくれている」

 ・・・

「それにね、セイコー。私はここにいる人たちと知り合えました。64歳になって、こんな素敵な家族がいっぺんに出来たんです」

 ・・・

 俺は彼の新しい家族を改めて見渡してみた。すっかり暗いというのに、連中はまだ熱心に医療についてしゃべっていた。

 

P197

 ・・・ちょっとヒュー・ジャックマンみたいな風貌の男性が話しかけてきてくれた。彼こそがMSFギリシャの会長、クリストス・クリストウ氏だった。・・・

 ・・・

「元々災害があれば駆けつけたし、資金も送る組織がずっとギリシャにはあったんです。誰かが困っていればそこにおもむくというのは、人間性そのものの発露に過ぎません。珍しいことじゃない。そうやってギリシャの市民はボランティアを続けてきたんです」

 ここにもまた熱い人間がいたのに気づき、俺はクリストス氏のいうことすべてを聞き取り、メモろうと姿勢を前傾させた。・・・

「さらに僕らの国には経済危機がありました。社会が崩壊するような危険が訪れた。しかし、だからといって難民・移民への心遣いが消えることはなかった。これは奇跡ですよ。草の根運動は継続したんです」

 その事実には学ぶことが多かった。特に草の根運動にも、他国民の困窮に手を差し伸べることにも疎くなっている今の日本人には。

 ・・・

「この一連の苦難は、これまでのMSFとは違う大きなチャレンジを我々全世界のメンバーに与えていると思います。単にMSFだけが活動するのではなく、市民と共に救助を行う、継続する、発展させる。そこに新しい道が拓ける」

 ・・・

 この歴史のどん詰まりの前で、彼は決して諦めようとしていなかった。それどころかMSFの活動を市民運動との連帯で拡大させ、自主的で人間主義的な動きへと導いているのだ、と思った。

 MSFギリシャ会長は給料のない地位であることを、俺は谷口さんから聞いた。それでも会議の度に、クリストス氏は現在の住居のあるロンドンからアテネに来ていた。

 ・・・MSFギリシャの会議、その理事会を終えたばかりのクリストス・クリストウ氏はこう言った。

「理事会でこそ、私のような会長や事務局長は夢を語らなくちゃいけません。誰もが現実的になってしまうから」

 この「夢」という言葉・・・本当に困難に直面し、日々悲惨な事実と向き合っている人々が口にするその言葉、その概念は。

 黙り込む俺に、さらに会長は言った。

「議論は常に他者を尊敬しているから出来ることです。けれど私たちも西洋的に考えるとついマッチョになり、攻撃して議論に勝とうとしてしまう。そういう理事会の多くによって、我々は大切なものを失ってきました。これこそ反省すべき点です」

つながる

キッチハイク! 突撃! 世界の晩ごはん ~アンドレアは素手でパリージャを焼く編~ (集英社文庫)

 文庫は2冊に分かれていて、こちらには、著者の振り返りの感想が書かれていて、印象に残りました。

 

P217

 さて、旅を終え、帰国してから6年、単行本の刊行から3年半が経ちました。・・・「キッチハイク」という概念を発見してから、僕はその虜になりました。ごはんを一緒に食べることが、こんなに奥深いなんて、誰が知っていたでしょうか。・・・

 帰国してから、新しく始めたことがあります。僕は、キッチハイクを逆にやってみることにしました。そうです、我が家の食卓に旅人を招いては手料理をふるまうのです。・・・

 妻と2人で、世界中からたくさんの旅人を招きました。・・・招いた旅人と食卓を囲んだ後、一緒に近所を散歩していると、キッチハイクの旅のワンシーンが呼び起こされます。

 バレンシアのヴィセントは、なぜか通っていた学校やらギター教室やらを案内してくれたなぁ、なんて思い出すのです。当時は、なんでそんな場所ばかり!と思っていましたが、僕は、徐々にヴィセントの気持ちがわからなくもない感じになっていきました。とにかく、自分由来の日常を届ける。それが家のごはんと同じで、後々いちばんグッとくるものがあると気づいたのです。

 ・・・

 もてなす側と、おじゃまする側。一見、与える側と、受け取る側に思えるけど、実際に旅人を招いてみて、もてなす側こそ、むしろ受け取ることが山ほどあるとわかりました。食卓を囲むことで日常に新しい風が吹き込み、新しい世界と接続する、自分が拓ける、まるで自身も旅をしているような感覚になるのです。

 世界中の食卓を訪ねて、もてなされ続けてしまったなぁ、しっかりと恩返しもできずに申し訳なかったなぁと、心のどこかで思っていました。キッチハイクを逆にやってみたことで、もてなされただけじゃない、訪ねた自分もきっとなにかを与えていたであろうとわかり、僕の心はやすらぎました。さらには、今になって、過去がより重層的な意味を持ったことに、得も言われぬ喜びを覚えました。

 キッチハイクの概念を見つけた瞬間を、今でも思い出します。共同体の成り立ちに関する文献を読んでいた時のことです。「縄張りに入ってきた部外者と友好を深めるためには、一緒に食事をするのが一番だ。地球上のすべての民族が根源的にこの慣習を持っている。」そんな一説に出逢いました。

 なるほど、シンプルかつとても具体的だと思いました。・・・

 ・・・

 旅を終えて、そして旅人を招く日々を過ごした上で、さらに気づいたことがあります。「食卓を囲む」行為が持つ、もっと大きな可能性についてです。キッチハイクは、僕が思っていたよりも、はるかに大きなものでした。つまり、キッチハイクは、国籍や言葉が違う者同士だけに当てはまる概念ではなかったのです。国籍が違っても同じでも、言葉が通じなくても通じても、初対面でも親しい友人でも、旅先でも日常でも、旅行者でもご近所さんでも、あらゆるシーンで人がつながり、絆を深めることができるとても大きな行為でした。逆説的ですが、海外を周ったこと、自宅の食卓にゲストを招いたことで、旅先から日常まで、すべての食卓を分け隔てなく見ることができるようになったのです。

 今、僕は、東京で「KitchHike(キッチハイク)」というWebサービスを育てています。料理をつくる人と食べる人をつなぐマッチングサイトとして始まったサービスが、さらには食と文化と交流をコンセプトに「食でつながる暮らし」を創造する事業として、成長を続けています。

 帰国直後は、一文無しである上に、事業がうまくいかなくて日銭を稼げない期間が長らく続きました。食で人をつなぐサービスなのに自分が食えない、というのはシャレになりません。それでも続けられたのは、キッチハイクの旅を通じて、その価値を確信していたから。応援してくれる素晴らしい人たちとの出会いがあり、価値に共感して仲間になってくれたメンバー、それからサービスを利用してくれる方々のおかげで、これまでに累計で5万人以上の人がつながるサービスになりました。キッチハイクの旅は、僕に希望と使命をもたせてくれたのです。

キッチハイク!

キッチハイク! 突撃! 世界の晩ご飯 ~ソフィーはタジン鍋より圧力鍋が好き編~ (集英社文庫)

 おもしろい本でした。今はこんな活動

株式会社キッチハイク - KitchHike, Inc.

 をされてるそうです。

 こちらは巻末の、内田樹さんの解説です。

 

P216

 不思議な本である。一人の青年が世界各地の一般家庭を訪ねて、そこで家庭料理をご馳走になって、その様子をレポートするというだけのものなのだが、これがなんだかやたらに面白かった。どうして、この本が面白いのか、それについて考えて、解説に代えたいと思う。

 最初にお断りしておくけれど、僕は著者のことを知らない。それが解説を書くことになったのは、著者の山本雅也さんが若い時に僕の書いたものを読んで、自分がぼんやりと感じていたことを強く肯定されていると感じて、それに背中を押されるようにして「食でつながる旅に出よう」と思い立ったそうだからである。・・・

 ・・・山本さんは会社を辞めて、身銭を切ってその旅に出かけた。何の意味があるかわからないけれど、それはたぶん旅をしている途中か、あるいは旅が終わったあとになればわかると思ったのである。なかなか素敵な腹の括り方である。若い人はこうでなければいけない。・・・

 山本さんは世界中を旅して、「一般家庭」で「一緒にご飯を食べる」ということが一種の人類学的なフィールドワークになるのではないかと思った。これは山本さんにとっては正しい直感だったと僕は思う。でも、言っておくが一般性はない。・・・これだけの仕事をこなせるフィールドワーカーにはいくつかのかなりハードルの高い条件が求められるからである。

 一つは「愛嬌があること」。それもかなりレベルの高い「愛嬌」があること。

 山本さんが毎回投じられるのは、コミュニケーションが難しい環境である。異国の、はじめて会う人の台所で、いきなりテーブルを囲んで一緒にご飯を食べるのである。相手の表情が読めない、言葉が通じない、生活習慣がわからない、何が美味で何がまずいのかがわからない、話していることのどこがジョークでどこがシリアスなのか区別できない……という切羽詰まった状況に山本さんは毎回投じられる。にもかかわらず、山本さんはいつも必ず美味しいものをご馳走になっている。美味を堪能するばかりか、受け入れ家庭の人たちとすっかり打ち解けて、時にはそのまま一宿の恩に与かったりする。これはたいした芸である。常人にできることではない。

 僕が知る限りで、海外の、それもふつうの観光客がまず足を踏み入れることのない僻地やあるいは身の危険のあるエリアで、地元の人とすぐに仲良くなって、さくさくとやるべき仕事をこなしてしまい、別れ際に「またおいで」と言ってもらえる人には共通点がある。笑顔がいいこと、声がいいこと、握手やハグが上手なことである。この三つの条件をクリアするのが「レベルの高い愛嬌」である。

 ・・・

 フィールドワーカーに求められるもう一つの資質は「自分のものの見方に固執しない」ことである。本書の中には、驚くべき事実を知って、その国に対する先入観を修正する場面が何度か出てくる。・・・

「キッチハイクの旅を続けると、なにが常識で、なにが普通のことなのか、だんだんとわからなくなりそうだなあと思う。現地の人と交流して、暮らしのど真ん中を知れば知るほど、『この国はこうだ!この街はどうだ!』なんて、決めつけられなくなる気がするのだ。」(134頁)

 ・・・

「人それぞれのリアルな暮らしは、ひとつひとつ絶対に違う。この目と胃袋で確認したことは、本当に、本当だ。」(134頁)

 ・・・

「この旅を通して、僕はいつだって自分の目で見て確かめてから判断したいと思うようになった。先入観や偏見がすべて間違いとは言わないが、事実と異なることは山ほどある。皮肉なことに、目で見て確かめて知れば知るほど、物事をひと言で語れなくなるのだけれど。」(101頁)

「物事をひと言で語れなくなった」、これは世界を旅した青年が持ち帰った最も貴重な知見だと私は思う。

 ・・・

 山本さんの筆致は、最初のうちは、自分がいまここで見たもの、食べたもののリアリティをつぶさに語ることに軸足が置かれていた。でも、巻が進むにつれてしだいに自分自身から離れてゆく。目の前にいる人たちが彼とともに見ているもの、彼とともに食べているもののリアリティを、彼らの身になって想像的に経験するところへと観察が広がってゆく。「物事をひと言で語れなくなった」というのは、おそらくそのことである。

 自分の眼から見えるものと他者の眼から見えるもの、自分の胃袋が受け入れたものと他者の胃袋が受け入れたもの。それらに等しく目配りすることができる人間にとって世界はその深みと奥行きを増す。

 旅することで胃袋の丈夫な若者はしだいに思慮深い大人になってゆく。そういうビルドゥングスロマンとして僕はこの旅行記を読んだ。若い人たちにぜひ読んで欲しい。