ここも印象に残りました。
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さて、この活動を取り仕切っている「国境なき医師団」側のトップ、ジョーダン・ワイリーはどんな人物か。・・・
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米国ポートランド出身。もともとは一般病院でスタッフ・トレーニングや災害救急マネジメントなどの仕事についていたという。地震、テロ攻撃など多数の被害者が出るような事態で、病院はどのような対処をすべきかの計画立案や訓練をしていたのだ。
さらに遡れば、彼はシングルマザーだった母親のもとで育ち、6人の弟と1人の妹を持つ身として家計をどう助けるかを考えていた。・・・
はっきりと道が決まったのはなんと11歳の時。テレビでアフリカの人道危機を知り、自分が役に立てればと思う。そのあと何年もしてから友達がMSFに参加してアフリカに行き、ジョーダンを誘った。すでに病院の仕事をしていた彼は、一も二もなくという感じなのだろう、2007年にはMSFに登録。
翌年にはナイジェリアに飛んでいた。
「このマニラで13ミッション目だね」
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一番短いもので2ヵ月、ナイジェリアでの緊急援助で500万の子供たちに髄膜炎のワクチンを打つという予防接種のロジスティック(運送や管理担当)をつとめ、一番長いのはもちろんここマニラでの2年だという。
さらに2010年には俺も訪ねたハイチに偶然ミッションで入っており、つまり大地震を体験してしまったのだそうだ。
それは小さなアルマゲドンだった、とジョーダンは言う。
「周囲のビルもMSFの病院も崩れ落ちた。人材も医療品もMSFとして確保されているのに、残念ながら病院がないんだ。それでロジスティシャンとして場所を緊急に設計して、木の板でベッドを作ったり、シーツで天井を作った。ない物はがれきの中から拾ったよ。コンテナの中で手術もしてもらった」
そこまで言ってジョーダンはふうと息を吐き、俺を見た。
「7人のスタッフを亡くした。そして、たくさんの患者を亡くした」
とジョーダンは表情を変えずに言った。
災害などの緊急援助にあたったスタッフは必ず休ませる、とは菊地寿加さんにも聞いていた通りだ。地震後10日間働きづめに働いたジョーダンを、MSF活動責任者は母国に戻した。彼本人はまだまだやることがあると反発したが、
「今思えば正しい判断だったよ」
とジョーダンは俺たちにはっきり言った。なぜかを話さない彼だったが、PTSDがあったに違いない。そのままミッションを続けていれば、彼は壊れかねなかったということだ。
それでも2年後、ジョーダン・ワイリーはハイチのミッションに戻る。彼の責任感はやり残したことをそのままにしておけなかった。そこに戻る仲間もいた。
シリアにも何度か入った。・・・
マニラのひとつ前にはチャドにいた。・・・
「僕自身は今回の活動を去年の10月から始めて、歩みひどく遅いながらもあきらめずに計画を前に進めている。MSFとしてもこれはチャレンジなんだ、セイコー。今までのように〝絆創膏を貼る(事態の根本的な解決はその国にまかせ、緊急援助のみに集中する)〟だけでなく、問題の内部に自ら入ること。しかも」
とジョーダンは姿勢の癖でかがめている身をさらに小さくして俺たちに近づいた。
「フィリピンは女性政治家も多いし、女性の力が強い。アメリカも日本も見習うべきだ。ただしリプロダクティブ・ヘルスが弱い。そこをどう援助していくか」
つまり彼はもちろんフィリピンの問題にどう関わるかを配慮しながら、同時にその国のよさを世界にどう輸出するかも考えているわけだった。世界の女性の権利を健康から考える。ジョーダンはその一助となりたいのだ。
そうした目標の中でこそリカーンは自国の女性問題に長く力を尽くしてきた団体として、MSFの導きの糸になる。
さらにジョーダンはこう言った。
「他にも援助団体はあるし、リカーンは決して有名ではない。そのへんの道で聞いても知らない人はたくさんいるだろう」
熱き男ジョーダンはそれ以上ないほど身を乗り出す。
「だけど、スラムで彼らを知らない者はいない。ここが重要なんだ。困窮した人々に絶対的な信頼がある」
彼の視点は明確で、事の奥まで見ていた。
「我々は彼らと共に進むんだよ」
さて、インタビューの最後に、谷口さんがこう聞いた。
「ジョーダンはどうしてMSFを選んだの?」
するとジョーダン・ワイリーは答えた。
「自分が何をしたいのか、ここにいるとそれがわかる」
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彼らのキャリアをくわしく聞いていくたび、「国境なき医師団」のリアルな活動状況、参加者の人間性、問題点の数々がわかった。・・・
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彼らは困難を前にするとたいてい笑う。
そして目を輝かせる。
そうやって壁を突破するしかないことを、彼らは世界のどん底を見て知っているのだと俺は思っている。