ゴリラは戦わない

ゴリラは戦わない (中公新書ラクレ)

 たまたま山極寿一さんの本を続いて読みました。

 こちらは小菅正夫さんとの対談です。

 

P45

山極 人間とゴリラの違い、例えば相撲の力士はぶつかりますね。でも、ゴリラはドラミングをしてもぶつからない。ドラミングは、ぶつからないための〝架空の闘争〟なんですよ。・・・

 たしかに若いゴリラは若気の至りというのか、喧嘩してしまうことがありますね。・・・

 ・・・ある程度年齢がいったシルバーバックになると、負けるわけにはいかないから、戦い合うとお互いに噛み合うわけです。・・・激しくやり合うと死に至るケースもある。

 だからメスや子どもたちが仲裁に入るわけですね。そこがゴリラのルール。子どもを背中に乗せたメスや子どもが「まあまあ」と間に入ると、オスたちは戦わずして、一応これで収めておくかと。メスの顔に免じて、子どもたちに免じて喧嘩は止めようとなるわけです。これがゴリラの共存のルールです。だからゴリラには「負けた」という姿勢がない。

 ・・・最後まで戦わないんですね、ゴリラは勝敗をつけたくないから。・・・ここで重要なことは、両方がメンツを保ちながら引き分けられるということ。だから勝敗をつけなくていいわけですよ。

 それと比べて、ニホンザルはそうはいかない。絶対に勝敗をつけないと収まらない。そういう場合、周りのニホンザルはどうするかというと、みんな強い方に付いて助けるわけです。弱い方を助けると、強い方が頑張るから、自分たちも戦わざるを得なくなる。でも弱い方を一緒になってやっつけておけば、弱いのはすぐに逃げなくてはならなくなるわけです。それもあり、ニホンザルというのは、すぐ負けちゃうんですね。

 

小菅 負け方は上手い。殺されないように負けますもんね。ギャーギャー鳴いたりして。

 

山極 そうそう。・・・

 それを見ると、我々人間は、ちょっと情けない気がするわけです。「あ、こいつらは品がないな」とかね。・・・

 でもゴリラは、全然そういうことをやらない。

 ・・・そもそも負けるという観念、あるいは社会的なルールというものがない。それはつまり、勝つという観念や社会的ルールもないわけですよ。・・・

 我々人間は、負けまいとする行為を見て、こいつは勝とうとしていると思ってしまう。でも「負けまいとする姿勢がとても立派だと感じる心」は、「勝とうとする、あるいは勝った者を称賛する心」よりも、強いんじゃないかと。

 

小菅 そうですね。

 

山極 これ、微妙に違うんですよ。

 

小菅 違いますね。

 

山極 勝つ構えと、負けない構えというのがある。

 勝つ構えというのは、パワーで周りを威圧しなくてはいけない。・・・だから勝者は孤独になるわけですね。

 ・・・

 でも、負けまいとする気持ちというのは、相手を押しのけることにならないわけです。相手と同等になるということだから、逆に友達を作ることになる。相手に構えさせない。

 それがゴリラなんです。「対等」ということが重要で、いずれかのゴリラが自分の上に立とうとすると、それを抑えようとする。「お前はそんなに飛び出てはいけないよ」と。

 これはメスのゴリラでもそうです。京都市動物園のゴリラ、・・・ヒロミはもの凄い負けん気が強いですから、ヒロミより二倍も大きいオスのゴンが力を振るおうとすると、もう食ってかかるわけですね。

 ゴンは、たじたじとなって、「う~ん」といって引き下がる。オスとメスでは体力が違うわけだから、ヒロミのことをねじ伏せようと思えば簡単な筈なんだが、それをやらない。それだけ、お互い体の差は違っても、対等であるということを凄く意識している。

 ・・・

 人間がそれを見て、「カッコいい」と思うのは、我々人間の社会もそういう道を歩んできたからだと思うんです。

 ・・・

 でもなかなか、そうはなり切れないところがあって、それが人間の弱味なんですね。〝サル〟にもなっちゃうわけです。

脳が外へ出てる?

虫とゴリラ

 へぇ~~~と、また少し世界の見え方が変わったような気がしたお話です。

 

P135

養老 生物は「遺伝子系」と「神経系」の二つを持ってるんですね。それでね、面白いことに、両方がたまたま同じものをつくることがあるんです。一つはね、いちばんはっきりしているもので、さいきん見つかったのは、ウンカの幼虫がぴょんと跳ぶんですけど、その脚の付け根の関節が、完全に「歯車」になってます。人間がつくったあの歯車と同じです。人間の歯車は脳がつくっているんですけど、昆虫の持ってる歯車は遺伝子がつくっています。両者がまったく同じものをつくっている。

 もっと古い例を言うと、三葉虫の目ですね。三葉虫の目のレンズって、じつは「収差ぬきレンズ」なんです。二つのレンズを組み合わせている。三葉虫の場合、方解石なんですけど、二つの異なる結晶を組み合わせています。化石が割れるときれいに出てくるからわかります。複合レンズと同じなんですよ。ところがね、これをデカルトホイヘンス(オランダの物理学者・天文学者 1629~1695)が、独自に設計しているんですよ。カメラのレンズもそうですけど、これは人間の脳がつくったもの。三葉虫のレンズのほうは、遺伝子がつくるわけですよね。

 

山極 いや、不思議ですよね。そのウンカの幼虫の後脚にある歯車状の機構って、跳躍する時に両脚の動きを「同期」させているんですよね。車輪をつくったというのは、人類史上とてつもない発明だって言われているんだけど、同じ構造のものが、自然界にもあった。人間は脳を稼働させて、頭の中の世界をどんどん拡張しているように見えるけれど、やっぱり自然の摂理を超えていないってことですね。

 

養老 そうです。自然のベースが完全に入ってるんですよ。数学なんかも、人間が頭で考えてると思ってるんだけど、たぶんそうじゃなくて、例えば、脳みそを調べてるといちばんよくわかるのは、「脳みそ自体が外へ出てる」っていう例がいくつかあるんですよ。そのいちばんの典型がね、「ピアノ」なんですね。ピアノっていう楽器は「経験的に」つくれないと思うんです。ピアノの筐体はつくれますけどね。

 

山極 弦楽器ですか。

 

養老 弦楽器は、経験的につくれますよね。弦が一本あって、ピンと張ったら音が高くなる。太くしたら音が低くなる。いろいろあるでしょう。そこに、箱をつけたら共鳴して、音量が上がる。ピアノはわからないですね。なんでいきなり、あれができてくるのか。

 ・・・

 しかもですよ、鍵盤が全部、等距離にきれいに並んでいるじゃないですか。あんなものを弾くことを考えるんだったら、小指で弾くほうは少し大きくするとか、なんかいろいろ変えてもいいはずでしょう。それをあんなふうに、きれいに同じにして配置しているんです。

 ・・・

 あれってね、一次聴覚中枢の「神経細胞の並び方」と同じなんですよ。つまり、出してる音が、いわば音の対数をきれいに取って並べてるんです。だから、極端に言えば、十の一乗、二乗、三乗、四乗とすると、それを一、二、三、四と同じ距離で並べている。なんと、聴覚の一次中枢の神経細胞を並べたら、そのままピアノなんですよ。

 

山極 へえー、数学的原理に基づいてつくられている。

 

養老 ようするに、対数そのものが「耳」から来ているんだと思います。そういう並び方。もちろん、人間は意識してないんだけど、直線がそうですよね。直線って存在しないでしょう、自然界には。あれは、人間が考えた理想のようなもので、じつは、点を集めて直線にしているんですよね。ユークリッドの公理です。だけど、「一しかないものを、いくら集めたって線にならねえじゃないか」って思ったことないですか。

 

山極 そう、そう、そう。

 

養老 もう、公理を最初に習った時に、そこがどうしても納得いかない。あれ、何かっていうと、じつは網膜がやってることなんです。網膜って全部、「点」でしょう。点というのは、真ん中が黒くて周りが白いか、真ん中が白くて、周りが黒いかどっちかなんですね。その網膜から、次の中枢に信号が送られる時に、次の中枢で何をするかっていうと、その点を次の中枢でつなぐんです。それはもう、ヒューベル(アメリカの神経生理学者 1926~2013)以前の仕事で証明されてます。なんだ、人間は、こうやって直線をつくっているんだよって。だから、直線は「頭の中だけに」あるんですよ。

 

山極 なるほど、なるほど。その数学の話でいったって、一と二の間には無限の可能性があるわけでしょう。それを直線というイメージでもって、一から十までつないでいるんですね。網膜と脳はそれを、一、二、三、四、五って、点からつくっている。非常に不自然な話であるはずなんだけど。

 

養老 神経細胞がそれをやってるんですよ。

 

山極 神経細胞が命じてるのか。

 

養老 というか、神経細胞がやっていることを、意識がなぜか知らないけれども、取り出すことができるので、それが「数学」です。

虫とゴリラ

虫とゴリラ

養老孟司さんと山極寿一さんの対談本、興味深く読みました。

 

P50

山極 ・・・僕は小さい頃、『ドリトル先生 アフリカゆき』なんかを読んで、「鳥や動物たちと話ができるようになりたい」なんて思っていたんですよ。「動物たちは人間のように、それぞれの言葉を持っている。その言葉を学べば、ちゃんと会話できる」って本には書いてあって、ずっとそれを信じていたんだけど、真っ赤なウソでしたね(笑)。アフリカのジャングルを実際に歩いてみて気づいたのは、「我々が言葉を持たなければ、彼らと会話ができる」ということでした。

 言葉を使わない生き物との会話と、言葉を使った人間の会話の何が違うかというと、養老さんがすでに書いておられますけども、言葉を使うのは「分類する」ことですよね。名前をつけることで、本来は「違う」ものを「同じ」カテゴリーに入れる。

 じつはこれ、自然界では起こり得ないことです。そもそも全部が違うものだから、お互いが違うものとしてコミュニケーションをしている。逆説的に言えば、違うからこそ、コミュニケーションをしたくなるんですよね。同じだったら、コミュニケーションを取る必要がない。そういうもので自然界は満ちているのに、人間は分類を始めて、いろんなものを省略して、違うものを「同じ」カテゴリーにどんどん入れ始めた。自然と会話できなくなったというのは、違いがわからなくなっちゃったということでしょうね。

 

養老 そういう「違い」って、感覚で知るものですよね。今の人間の世の中は、できるだけ五感を使わないようにして、違いを排除しようとしています。感覚を重視すると、たちまち生き物の持つ生来の違いに満ちてしまって、人間がつくる世の中とずれてしまうんですよ。・・・

 今もみなさん、感じがいいとか悪いとか、ウマが合う合わないとか、「感覚的な」コミュニケーションはしょっちゅうしていますけど、結局、それらもぜんぶ生来の感覚から離陸させて、論理や概念に置き換えようとしている。「人は乱暴だよ」って、いつも思うんですよ。

 ・・・

 コンクリートっていうのは一種の「触覚の忌避」ですよね。・・・

 ・・・

 触覚の「直接性」が人間には嫌なんでしょうね。じつは感覚って、すべての五感が二重構造になっているんです。視覚は目の網膜の他に、光受容細胞を持つ松果体があります。これ、鳥までは間違いなく光受容をして脳につながっていたんだけど、哺乳類では脳との関係が切れちゃっていて、性周期や日照時間といった、自分の体のいわば生物時計としてはたらいています。聴覚の場合、音を「聞く」ようになるのは生物が陸に上がった後だから、わりに新しいんですね。だけど、体の平衡や、重力を感じる半規管や前庭器官はかなり古い器官です。さらに受容器だけではなく、自分の身体全体で、加速度を測ったり、音の振動を感じている。そこも二重になっています。

 触覚もたぶんそうなっていて、もともとは温痛覚で感じる「痛み」ですが、熱いとか冷たいとか、肌感覚であるとか、自分の身体とまさに関係し合います。嗅覚、味覚にも、フェロモン物質のように、我々が意識できるもの、できないものがあって、それぞれに末梢器官が違っています。自分の身体に関係するもの、あるいはその原始的なもの、もっぱら外界の情報を受け取るもの、五感というのは、それらの二重構造になってると考えたほうがいいと思うんですね。

 ・・・

 しかも、味覚と嗅覚は、解剖でいうと、末梢から入った刺激が大脳新皮質に五十パーセントしか行かないんですよ。五割は辺縁系という古い部分に入っちゃうんです。ところがね、残りの三つ、視覚、聴覚、触覚は全部、大脳新皮質にぼんと入ってきます。

 

山極 ああ、触覚もそうなんですか。この三つの中で視覚、聴覚っていうのは、言うならば「実体化」できるんだけど、触覚は、まさにこう、実体化できない感覚ですよね。触っている人と、触っていない人は、同じ感覚ではないので「共有」できない。

 

養老 だから私、視覚、聴覚、触覚は「一緒にするべき」だって、いつも言っているんです。触覚ってね、例えば、知らない人の手をいきなり握ると、特別な意味を持っちゃう。それを証明するのに、ある時、居酒屋で隣の知らないおっさんの手を握ってみたんです。そうしたら、ぱっと逃げちゃいましてね(笑)。

 

山極 なるほどね。社会的な理由で分けられているんですね。ダイレクトに見る。ダイレクトに聞く。ダイレクトに触る。とりわけ触覚は誤解が生じやすい(笑)。おっしゃるとおり、触覚というのは、非常に直接的ですね。

 人間の赤ちゃんはまず最初に、周囲の世界を触覚で捉えますよね。次は、何でも口に入れてなめてみたりして、味覚で捉える。そして、嗅覚っていう具合に、だんだんと自分の身体と離れたものを、理解の対象にしていくわけですよね。その過程を十分に行わないと総合的な判断を身体ができなくなるんです。最後に視覚がくるんだと、僕は思いますけどね。逆に、人間の身体の信頼性というのは、触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚の順で薄れていく。・・・

 ・・・

「お母さん、手をつないで」って言いますでしょう。あの感覚は非常に根源的な、個体と個体のつながりを表していると思います。人間同士だけではなく、その先にある世界そのものとつながっているような安心感がありますよね。人間が根源的に求めている感覚なんだと思います。・・・

すべて錯覚

明日、機械がヒトになる ルポ最新科学 (講談社現代新書)

 やっぱりどうもそのようですが、よく出来すぎてるなぁ・・・と不思議な気持ちになります。

 

P245

―これまでぼくが取材してきた技術というのは、すべて「人間の幸せ」というところに集約されている気がするんです。前野さんは、ロボット技術を突きつめて幸せの研究に至ったわけですよね。

前野 そうですね。

―まずはなぜロボットから幸せの研究に移っていったのか、それを教えてもらえますか。

前野 僕はロボット研究のさらに前、カメラのモーターとかをつくっていたんです。物をつくれば人々が豊かになると思っていた。でも、物質的に豊かになっても、人間ってそれで精神的に豊かになるわけじゃないんですよね。・・・物をつくるのはいいけど、それが無駄にならないようにしたいですよね。そのためには設計変数に「人間の幸せ」っていうのを入れなきゃいけない。これをつくると幸せになるはずと思いながらみんなやっているのに誰も幸せにならないとしたら、人類みんな馬鹿じゃないですか。

 ・・・

 ・・・やっぱり理系として、エンジニアリングとしての幸福学をやらなきゃいけないと思ったんですよね。・・・

 ・・・

―前野さんがロボットの研究から幸せの研究に行かれたとき、そこに人間の機械化の視点があったのかなと思って今回取材に来たんです。「幸福学」というのは、人間をメカニカルにシステマティックに幸せにする発想じゃないですか。

前野 まあそうですね。言われてみると確かに人間を機械として見るような視点が入ってます。僕の原点は「受動意識仮説」にあるんですよ。心は幻想であると思っている。心なんて、徹底的にない。

 

 ここで「受動意識仮説」についてちょっと説明しておこうと思います。

 まず、ここで言う「意識」とはみなさんが言う「私」に近いもので、デカルトの言った「我思う、ゆえに我あり」における「我」という意識のことです。この意識はいったいどこにあるのか?ないのか?古今東西の学者がこれについてはさまざまな見解を示していますが、いまだに意識そのものを観測することはできません。

 しかし、「意識は受動的に出力される結果である」というモデルならば意識の謎をうまく説明できる、というのが受動意識仮説、前野さんの主張です。

 受動的に出力される……とはどういうことか?

 たとえば生物は外界の刺激に反応して動きます。それと同じように、意識というのは環境や単純な刺激によって、場当たり的に「出力」されているものだということです。動物や昆虫は環境の変化に応じて、意識する前に動いている。人間も実は同じで、ただ、そのあとで意識が出力されるのだ、というのです。

 少し考えるとわかるのですが、これは妙な主張です。

 なぜなら普段、わたしたちはまず「意識」の上で考えてから、その意識をもとに行動決定をしているはずだからです。「受動意識仮説」に従うなら、行動のあとに意識が発生していることになります。

 ところが、実験ではそれが証明されているのです。・・・

 ・・・実験から「意識は存在しない」とする主張は、なにも前野さんが初めてというわけではありません。人が意識と思っているものは幻想にすぎず、自由意志も存在していない・・・

 ですが前野さんはさらにその先を行き、意識の機能は工学的につくれると主張します。

 ・・・

―受動意識仮説はぼくも正しいと思っているんですが、世間一般の実感と猛烈に反しているのでなかなか受け入れられませんね。

前野 もともと人間って機械なんだから、それを自覚したときにどう生きるべきなのか、というのが受動意識仮説の根底にある問いです。その問いを自覚したうえで、どうせ機械なんだったら、不幸せより幸せのほうがいいじゃんって私は思ったんです。そこで幸福学に移ってきた。

 ・・・

―人を幸せにするロボットをつくる方向性もあったと思うんですよ。たとえば介護とかコミュニケーションの現場で役立つものとか。

前野 よく言われます。なんでそれをやらないんですかって言われるけど、幸せロボットに興味がないからですね。遠隔操作ロボットの認知の研究は一時期してたんですけど。そっちはおもしろいですよ。

―どんなものですか?

前野 手を針でちょっと刺すと痛いじゃないですか。でも、他人にそこをさすってもらうと痛みは弱まるんです。じゃあロボットがさすったらどうかというと、痛みは弱まらない。ところがそこで、「このロボットは遠隔地にいるあなたの友達が操作しているんですよ」って言うと痛みが弱まるんです。

―「人間がやっているんだ」と思うと痛みがマシになる?

前野 そうです。実際はロボットがやっているんだけど、嘘ついて「それは人間が操作しているんですよ」って言っても痛みは弱まるし、逆に人が操作しているんだけど「ロボットが人間っぽくやってるだけですよ」って言うと弱まらない。つまりロボットか人間かで全然認知が変わっちゃう。

 

 これは松尾先生のところでも聞いた「AI効果」です。人はロボットがやっていると知った瞬間に、たいしたことがないと思ってしまう。それを逆にして、人がやっていると思い込ませることができれば、確かにこの話は理解できます。

 

―それはおもしろいですね……。・・・これは心の問題ということですよね。そこで言われている心っていうのは、相手が心を持っていると思うっていうこと……という。

前野 そう。そのへんには興味ありますね。いかに心を感じさせるか。・・・

 ・・・

石黒浩さんは仏教関係の方と交流があるそうなんですけど、前野さんはどう思いますか。ロボット研究と仏教ってどこか共通している部分があるんでしょうか。

前野 完全に同じだと思っています、対象は。アプローチのしかたは違いますけどね。僕の本を読んで、曹洞宗の人が「普通の僧侶より仏教のことがわかってる」って言ってましたよ。

―確かに、前野さんの「受動意識仮説」も「幸福学」も宗教の言ってることにきわめて近い。

前野 そうですね、近いですね。ブッダが言ってることとも近いし、キリストの言ってることとも近いですよ。

 ・・・

―「幸福学」というのは、教祖がいないだけで宗教の言っていることと同じなんでしょうか。

前野 近いですね。僕は自分のやっている研究は世界平和研究に近いと本気で思っているんですが、この分野は、今まで脳科学など科学の裏付けがなかったから、宗教として扱われていたにすぎないんじゃないかと思っています。

 ・・・

 今思えば、7歳くらいで心の幻想性に気づいたんですね。だから悩んでたんですよ。そのあと、進化的計算やニューラルネットワークにはまってたのが1990年くらいかな。・・・

 ・・・

 ・・・人間は精巧なロボットだと思ったのは・・・2000年にさしかかるくらいかな。じゃあ心だってシンプルなんじゃないかと思ったのが2004年。

―ロボティクスや進化的計算をやっていたから、気付いたわけですね。

前野 そうです。あるいは藤井直敬さんとも近いですね、ラバーハンドイリュージョンとか。何が錯覚で何が現実かってことをずっとやっていて、2004年に「すべて錯覚だ」で説明つくじゃん、以上!って思った(笑)。だからもうそこで終わりですね。悟りの境地。・・・僕の心はスカーッと晴れて、単純でただ生きてるだけという境地になった。

私ってどこにいるの?

明日、機械がヒトになる ルポ最新科学 (講談社現代新書)

 つながってる、やっぱりすべて連動してますよね・・・と思いつつ読んだところです。

 

P183

 その日とるべき行動をアドバイスしてくれるシステム「ライフシグナルズ」を自作し、それに従って生きているという矢野さん。・・・

―そもそも、この研究はいつから始まったんですか?

矢野 2003年くらいでしょうか。・・・

 ・・・

―・・・もともと矢野さんはこうした統計やハピネスなんかに興味があったんですか?

矢野 私は物理専攻なんですよ。・・・ちょうど大学院の頃に、社会現象を物理理論で扱う「シナジェティクス」っていう学問が出たんです。その本を読んで、自分もこういうことができたらおもしろいかなあと。

―社会現象を物理理論で扱うっていうのはユニークですね。

矢野 ・・・自分自身、社会ってどういうふうに動いてるのかよくわからなかった。もともとカール・ヒルティの『幸福論』が愛読書で。・・・

ヒルティの『幸福論』って、どんなことが書いてあるんですか?

矢野 ものすごく実践的なんですよ。たとえば時間の使い方っていうのが第1章に書いてあるんです。「あなたは何かをしようとするときに、準備が整ってないとか言って後回しにするけど、大事なのは始めることだ」とかそういうことが書いてあるんです。

―最近の自己啓発書みたいですね(笑)。

矢野 ヒルティはもともとキリスト教をバックにしている人で、このなかにも、さまざまな哲学が書かれているんです。実践的なことと、高尚なキリスト教哲学が交互に書かれていて非常に感動しました。彼は『幸福論』のなかで、ギリシャの哲学家、エピクテトスについて書いているんですが、そこでは、自分がコントロールできないことに対してどう向き合うべきかという話が、ものすごく簡潔に書かれていました。そのときまだ20歳前後の私は感動しまして。こういうのを、もうちょっと理論的に高めたいなと思ったんです。

 ・・・まあ、会社に入ったらそんなことができるわけもなく(笑)。20年くらいはそこには行かずに過ごしてたんですけど、人間のデータをとっていたら、実はそういうところにまた戻ってきた。

 ・・・

 もともと物理統計をやっていた時代は、いわゆる「多体問題」っていうのを研究していました。複雑な原子が絡み合って結晶化することについてですね。原子を人間に対応させて考えると、結晶っていうのはひとつの社会みたいなものかなと考えたり……。そういうアナロジーから、社会での個々のビヘイビア(ふるまい)っていうのは、その人が起こしたんじゃなくてその人と周りとの関係性によって起こってるんじゃないかという、物理っぽい世界観を持っていました。

 ・・・

―・・・矢野さんは、いろいろな法則に従って、人間が分子的なふるまいをするのを見ていますよね?そういう目で見たときに、人間の定義について考えたことはありますか?

矢野 意識したことはないですね。ただ、「全体」と「個」ということについては、ものすごく意識してますね。特に私が気になっているのは、「人間とは何か」ということよりも「私ってどこにいるの?」という点です。

―それはどういう意味の「私」ですか?

矢野 心に近い意味ですね。心は脳のなかにある、という考え方があります。でも、「ドキドキする」とか「興奮する」って言うときには、みんな胸をなでているでしょう。そういうとき、心は心臓にあるんじゃないかと思うんですよ。だけど、「腹が据わる」とか「腹に落ちる」って言っている瞬間は、心は腹にあるんじゃないかと思うんです。

古代ギリシャだと脾臓にある、と言われていたんですよね。心は状況によって移動すると?

矢野 そうですね。それぞれのことわざや考え方は迷信じゃなくて、一面をきちっととらえた、かなり科学的なものなんじゃないかと思いますね。で、私は毎日センサでデータつけてるじゃないですか。そうしたらこれも、もう体の一部なんです。なくなったら自分ではない。

―デバイスによって身体が拡張されてると。

矢野 そうです。車を運転してるときは、ハンドルの先にあるタイヤの動きまで「私」になっているでしょうし、複数人でお話ししてるときは、話している人とのあいだに、体の動きのシンクロが起きている。自分を自分の意志で動かしているなんていうのは、おごり高ぶった考え方で、人間の体の動きなんて、集団現象なんじゃないかなと思うんです。

―へええ。

矢野 コールセンターでデータをとってみた結果もすごくおもしろいんですよ。休み時間に従業員の雑談がはずんでる日は、職場全体のハピネスが業務中も含めて高くなってるんです。電話の応対能力がアップすることまでわかってるんですよ。

―雑談してる人の業績だけ上がったんじゃなくて、コールセンター全体の業績が上がってるんですか?

矢野 そうです。一対一の対話関係はほとんどありません。でも、雑談という集団現象が、ハピネスという集団現象として、雑談を超えた全体に影響を与えていて、それがコールセンターという集団に影響を与えているんです。電話でマニュアル通りに対応する仕事だから、集団は関係ないとみんな思っていますが、実はデータを見るとそうじゃないんです。

―・・・一緒にひとつの作業をしてるわけじゃなくてもシンクロが起こるのはどうしてなんでしょう?

矢野 人間は場を共有しているだけで、無意識に影響を受けてつながりあってるってことですよね。

―空気をつくる人って重要なんですね。

矢野 そう。今まであんまり評価されてないんですが、とても重要です。よく・・・「ムードメーカー」って言われる選手がいますよね。あれって、すごく科学的根拠があるんじゃないかな。・・・

幸福の研究

明日、機械がヒトになる ルポ最新科学 (講談社現代新書)

「満たされる」ことではなく、そこに「水が入っていく感覚」の方が大事、というところ、ちょっと目から鱗でした。

 

P104

―ぼくは、神林長平というSF作家がすごい好きなんですけれど、彼は、遠い未来に、機械が知性を持ったときに読むための小説を書いている、というんですね。それって「人間を超えた人間性」に賭ける態度だと思っていて、一周回ってこれほど人間的な小説を書く理由ってないな、と思うんですが、石黒先生の「人間はこれから生きる意味を考えていく必要がある」という話に通じるものがあると感じました。

石黒 僕も正しいと思いますよ。そういった小説は、逆に言えば、本当の意味で定義された人間が感動する、というものでもあるでしょう。ロボットは人間の鏡です。ロボットが人間に受け入れられる存在になったときに、その中身を見れば、そこに人間の定義が書いてあるはずなんです。・・・だから、「本当の意味で人間に訴えかけるものはなにか」ということを考えていっても、そういう結論になると思います。

 ・・・

―ロボットが否応なく人間社会に浸透し、影響を与えてくるというのはわかりました。とすると、気になるのが法律の整備なんですが、ロボットやアンドロイドでは、なにか問題が起きてますか?

石黒 ・・・最近ちょっとまずいな、って思ったのは、「エシカル・ジレンマ」ですね。

エシカル・ジレンマ、「倫理的な葛藤」という意味ですよね。・・・

石黒 僕のつくったもののなかに「テレノイドⓇ」というアンドロイドがあります。ニュートラルなデザインの人型をした簡易アンドロイドで、遠隔操作で発話したり動かしたりできる。このテレノイドを通じた会話療法などをデンマークで行っているんですが、高齢者や精神障害者は異様にテレノイドを好きになってしまうんですよね。

―人間には心を開いてくれない人が、アンドロイドには警戒心を解いてくれるということですね。

石黒 で、なにが起こるかというと、ありとあらゆる秘密をしゃべっちゃうんです。たとえば、銀行口座とか、暗証番号とか、全部言っちゃうんです。

―それは……まずいですね。遠隔操作しているオペレーターがそれをすべて知ってしまうわけですから……。

石黒 そうです。でも、これすごく治療的には大事なんです。・・・だから、対話型ロボットは必要なんですけど、ものすごく信用のできるオペレーターしか採用できないんですよね。悪用すると、オレオレ詐欺が完璧にできちゃうんですよ。

―もはやオレオレって言う必要もない(笑)、……すごいですね。

石黒 ロボットっていうのは、高齢者とか、子供とか、障害者にとっては非常にいいデバイスになるんです。一方であまりになんでも言いすぎちゃう、っていう。人間じゃないから言ってもいい、って思っているのかもしれない。

 

P111

―お話を聞いていて、思い出したことがあるんですが、慶応義塾大学の前野隆司さんが、「受動意識仮説」というのを唱えてて。そこで言ってることが、石黒さんの言っていることとかなり近いんです。つまり、「『心』や『私』なんてない」と。最終的には、それがすごく仏教の考え方に近いんじゃないか、という話をしているんです。

石黒 実は僕、仏教関係の方に講演を依頼されたりするんですよ。浄土真宗の研究部門の人が僕の本を読んでいるらしいです。

―何か近いものがあるんでしょうか。そのときはどんな話をされたんですか?

石黒 まあ、今日しているのと同じ話です(笑)。彼らは、僕の本をすべて読んでいて、「人の心というのは、互いに心があると信じているから、存在できる概念なんだ」という話は、まったく仏教と同じとしたうえで、最終的にはすべて無に帰するものだって言っていました。あれはちょっとおもしろかったですね。

―ぼくはロボットの研究というのは、最終的には「人の幸福の研究」に行くんじゃないかなとおもうんです。・・・結局、「人間を知る」ということと、「人間がどうやったら幸せになれるのか」っていう話はけっこう近くて、前野さんはそれを定理化しようとしているんです。

石黒 社会心理学みたいな話ですね。

―そうですね。今日出たプログラミングの話―究極の人間のマニュアルをつくるという話をより発展させたものだと思うんです。「こうすると幸せになれる法則があるよ」みたいな。

石黒 僕はね、「満たされる」というのは絶対的な価値観ではないと思っているんですよ。そこに水が入っていく感覚のほうが大事で、本当に水がいっぱいになってあふれちゃったら、お腹がいっぱいになってなにも感じなくなる。たぶん、穴が開いてるんです。心のなかには。幸せは相対的な価値観なので、全員が幸せだったら、絶対人間幸せにならない。不幸を見ないと幸せになれない。そういう気もちょっとしている。だから、幸福をちゃんとマニュアル化できるかどうかっていうのはわからないですけど、僕も、従来の物質的な幸せや金銭的な幸せを超えて、ある程度人が納得するような精神的な幸せというものを伝えられるような気はしています。もしそれができたら、そのとき僕はね、宗教法人を立ち上げる。

―本当ですか⁉

石黒 産学連携なんてもう古い、今は「教学連携」かな、と思っていて。やっぱり人間にとって一番大事なのってお金じゃなくて心が満たされることで。みんな最終的にそこに行くんです。

 ・・・

 ・・・特定の宗教だけを無目的に信じる宗教学はダメだと思うんですけど、人間の心のよりどころみたいなものを、常に最新の科学とか哲学をベースに考えて直してみるっていう意味の宗教学っていうのは絶対に必要で、特に、機械と人間の境界がなくなりつつある今は、・・・人間がどう生きていくかを考える宗教学は必要だと思います。・・・

心は、あると思えば存在する

明日、機械がヒトになる ルポ最新科学 (講談社現代新書)

 「どうすれば『人』を創れるか」も面白かった、石黒先生のお話、興味深いです。

 

P87

―すごく聞きたかったことが一つあるんです。石黒先生、最初の頃に自分の娘さんをロボットでつくられてますよね。

 ・・・

 ・・・自分の娘さんと、ロボットの娘さん、先生が「心」があると感じる瞬間って同じ感覚なんでしょうか?

石黒 それは、まだわからない。ただ、ロボットをつくったときに、「このロボットは意識をもって動いているのかもしれない」、と思ったことはあります。

―どういうときですか?

石黒 たとえば、ロボットを横に置いてミーティングをすると、ロボットが僕らの声に反応して、「なんでそう言うの?」っていうことをふっと言うわけですよ。そういうときは、めちゃくちゃドッキリします。よく考えれば、プログラムでテキトーに相槌うってるだけなんですけど(笑)。そもそも、僕は、心というのは主観的な問題なので、仕組みがどんだけ複雑か複雑じゃないかは関係なく、人間かどうかも関係なく、相手に心があると思えば存在するものだと思っているんですよ。

―たぶん、世間の多くの人はそういう意見に反発すると思うんですよ。そういうものじゃなくて、心というのは問答無用で「人間には備わってるんだよ!」と。

石黒 はっきり言うと、心もないくせに「心」なんて言うんじゃないよ、って思いますね。

 

 驚かれるかもしれませんが、これこそ石黒先生が一貫して著書などで語っている主張なのです。つまり、「人に心はなく、人は互いに心を持っていると信じているだけである」ということです。この主張にはぼくも同意です。

 この社会で生きていると、ことあるごとに「心」という言葉を口にする人と出会います。悪いことをしたら「心を入れ替えろ」とか、行動に「心がこもっていない」等々。そこに反論すると「頭でっかちだ」と言われます。そういう人のほうが「心でっかち」だと思うのですが……。

 

―先生はどうしてそういう考え方をするようになったんですか?

石黒 僕ね、感情がなかったんですよ。子供のときに、怒ることが一切できなかったんですね。

―怒ることができなかった?

―それは、何歳くらいのことですか?

石黒 小中学校の頃に自覚しました。大学で助手をやるまで「怒る」ということがなかったんですよね。人がなぜ怒るのか、不思議でしょうがなかった。「怒る」なんてまったく不毛なんですよ。お腹減るし、エネルギー使うし……そんな暇なことよくやってるな、と思っていたんですよね。でも、大勢の人間をたばねるときには怒ることも必要で、だからがんばって練習しました。

―その話、とても共感できます。実はぼくも同じようにあまり怒ることがないのですが、その理由というのがまったく同じで、「怒る」なんて無駄だと思っているからです。しかし……練習すれば怒れるものなんでしょうか?あと、それって本当の感情と言えるんでしょうか?

石黒 心理学の下條先生(カリフォルニア工科大学教授 下條伸輔)が、「感じるから行動するのと、行動するから感じるのと、どっちが先か?それは両方だ」という話をされていました。・・・行動してると、感情は自然に芽生えてくるものなんです。

―なるほど。ぼくは、先生と同じで、人にもともと心があるとは思っていないほうなのですが、それでも「心」とか「気持ち」って幼少期にプログラムされるじゃないですか。石黒先生がそれをうまくわからなかったのは、教育のせいというのもあるんですか?

石黒 かもしれないですね。僕はね、今でもちょっと覚えているのは、小学校5年くらいのときに、大人に「人の気持ちを大事にしなさい」って言われて、めちゃめちゃドッキリしたんですよ。

―それはどうしてですか?

石黒 だって、わからなかったから。「人」「気持ち」「考える」、どれもなにひとつわからなかったです。

 ・・・

―・・・ぼくも小学校の頃、自分に心がないことを自覚していたんですが、大人に「他人がどう思うかと自分で考えて、それを内面化しろ」って言われたんですよ。

石黒 ムチャクチャ難しい(笑)。

―漠然と「心」みたいなことは言われなかったんですよね。そういうプログラミングがはっきりしていた。だから逆に、意外と自分は、ロボットなのかもな、って思ってました。

 ・・・

石黒 僕、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』っていう小説が好きなんです。そのなかで、大人になるっていうことは、小さい頃にわからなかった人とか心とか、そういった問題にテキトーな折り合いをつけてわかったふうなことを言うことだ、って書いてあるんですよ。僕は、その通りだと思います。・・・

 

 なんだか……ここまでの話を聞いて、石黒先生がアカデミズムの世界にいるのが奇跡に思えてきました。どうしてそんなふうに自由に生きて研究者になれたんでしょうか?・・・

 

―石黒先生は、もともと研究者になりたいと思っていたんですか?

石黒 いやいや、そんなことはない。僕は絵描きになろうと思っていたから・・・昔からどちらかというと病気がちで、あまり生きることに執着がない。・・・バイクに乗るか絵を描くかしている毎日だったんですよ。でも、さすがに手に何も職がついてないと食っていくのが大変だなと思って、コンピュータを勉強して、そこから人工知能やロボットをやりだしたんです。

―え、そんなにパッとできるんですか?絵描きから人工知能とかロボットの分野って……かなり畑違いじゃないですか?

石黒 俗世間を生きるための縛りみたいなものを持たないでいると、けっこうできるんですよ。僕、3年ごとに、全部研究テーマを変えているんです。普通の研究者っていうのは、分野とか、大学とかがあるんですけど、そういうのも持たない。要するに根無し草なんですよ。社会に帰属するポイントがないので、どうでもいいです。