「国境なき医師団」を見に行く

「国境なき医師団」を見に行く (講談社文庫)

「俺は『国境なき医師団』の広報から取材を受けた。・・・で、向こうから取材を受け始めて10分も経っていなかったような印象があるのだが、俺は団の活動が多岐にわたっていることを知り、そのことがあまりに外部に伝わっていないと思うやいなや、〝現場を見せてもらって、原稿を書いて広めたい〟と逆取材の申し込みをしていたのだった。」ということで、いとうせいこうさんが、各地を巡り、感じたことなどが書かれています。

 

P72

 街の中のチカイヌという地域にある宿舎で、週末の屋上パーティがあるという・・・

 いかにも気楽なように見えるが、催すのも派遣スタッフ、出席するのも派遣スタッフ。つまりそれが彼らのストレスマネージメントのひとつなのだ、とわかった。

 ・・・

 興味を持って出かけることにして本当によかった、と今つくづく思う。

 僕はそこで各国からのMSFスタッフに一気に会い、話をし、何が彼らを突き動かしているのかを知ることになるのだから。

 ・・・

 名前をカール・ブロイアーと言った。年齢は64だったと思う。

 痩せていて身軽で背が高く、控えめでにこやかな人だった。

 フェリーと共によくグリルの火の具合を見ていて、気づかぬうちに立って確認していつの間にか戻っているという感じで、自分を前に押し出すタイプではないようだった。

 ハイチの現状について、カールは英語でゆっくりと伝え間違いのないように気をつけている風に語った。ハイチに足りないものは多かった。施設の不足による医療の届かなさ、政府のインフラ対策の少なさ、人々の衛生への意識など。しかしカールはそれを責めるのではなかった。もしもっとあれば、その分だけ人の命が助かるのにと静かに悔しく思っているのだった。

 まるで若者が理想に燃えるかのように、還暦を過ぎたカールは希望を語り、しかし終始にこやかに遠くを見やっていた。その暗がりでの表情の柔らかさを、俺は今でも思い出すことができる。・・・

 俺はカールがこれまでどんなミッションを経てきたのか聞きたかった。

 もしよければ教えていただけませんか?

 すると微笑と共に答えが来た。

「初めてなんですよ」

 俺は驚いて黙った。

「これが生まれて初めてなんです」

 カールはまるで自分に孫が出来たかのような初々しい喜びをあらわしてさらに言った。

「私はエンジニアとして、ドイツの中でたくさんの仕事をして来ました。あっちの会社、こっちの会社とね」

「あ、お医者さんでなく?」

「そう。技術屋です。それで60歳を超える頃から、ずっとMSFに参加したかった。そろそろ誰かの役に立つ頃だと思ったんですよ。そして時が満ちた。私はここにいる」

 たったそれだけのことを聞く間に、俺の心は震え出してしまっており、とどめようがなかった。暗がりなのをいいことに、俺はあろうことかカールに顔を向けたまま涙を流してしまっているのだった。

 ・・・

「ご家族は、反対、しませんでしたか?」

「私の家族?」

 ・・・

「彼らは応援してくれています。妻とは、毎晩スカイプで話しますしね。いつでもとってもいいアドバイスをくれるんです。子供たちもそうです。私を誇りにしてくれている」

 ・・・

「それにね、セイコー。私はここにいる人たちと知り合えました。64歳になって、こんな素敵な家族がいっぺんに出来たんです」

 ・・・

 俺は彼の新しい家族を改めて見渡してみた。すっかり暗いというのに、連中はまだ熱心に医療についてしゃべっていた。

 

P197

 ・・・ちょっとヒュー・ジャックマンみたいな風貌の男性が話しかけてきてくれた。彼こそがMSFギリシャの会長、クリストス・クリストウ氏だった。・・・

 ・・・

「元々災害があれば駆けつけたし、資金も送る組織がずっとギリシャにはあったんです。誰かが困っていればそこにおもむくというのは、人間性そのものの発露に過ぎません。珍しいことじゃない。そうやってギリシャの市民はボランティアを続けてきたんです」

 ここにもまた熱い人間がいたのに気づき、俺はクリストス氏のいうことすべてを聞き取り、メモろうと姿勢を前傾させた。・・・

「さらに僕らの国には経済危機がありました。社会が崩壊するような危険が訪れた。しかし、だからといって難民・移民への心遣いが消えることはなかった。これは奇跡ですよ。草の根運動は継続したんです」

 その事実には学ぶことが多かった。特に草の根運動にも、他国民の困窮に手を差し伸べることにも疎くなっている今の日本人には。

 ・・・

「この一連の苦難は、これまでのMSFとは違う大きなチャレンジを我々全世界のメンバーに与えていると思います。単にMSFだけが活動するのではなく、市民と共に救助を行う、継続する、発展させる。そこに新しい道が拓ける」

 ・・・

 この歴史のどん詰まりの前で、彼は決して諦めようとしていなかった。それどころかMSFの活動を市民運動との連帯で拡大させ、自主的で人間主義的な動きへと導いているのだ、と思った。

 MSFギリシャ会長は給料のない地位であることを、俺は谷口さんから聞いた。それでも会議の度に、クリストス氏は現在の住居のあるロンドンからアテネに来ていた。

 ・・・MSFギリシャの会議、その理事会を終えたばかりのクリストス・クリストウ氏はこう言った。

「理事会でこそ、私のような会長や事務局長は夢を語らなくちゃいけません。誰もが現実的になってしまうから」

 この「夢」という言葉・・・本当に困難に直面し、日々悲惨な事実と向き合っている人々が口にするその言葉、その概念は。

 黙り込む俺に、さらに会長は言った。

「議論は常に他者を尊敬しているから出来ることです。けれど私たちも西洋的に考えるとついマッチョになり、攻撃して議論に勝とうとしてしまう。そういう理事会の多くによって、我々は大切なものを失ってきました。これこそ反省すべき点です」