やっぱりどうもそのようですが、よく出来すぎてるなぁ・・・と不思議な気持ちになります。
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―これまでぼくが取材してきた技術というのは、すべて「人間の幸せ」というところに集約されている気がするんです。前野さんは、ロボット技術を突きつめて幸せの研究に至ったわけですよね。
前野 そうですね。
―まずはなぜロボットから幸せの研究に移っていったのか、それを教えてもらえますか。
前野 僕はロボット研究のさらに前、カメラのモーターとかをつくっていたんです。物をつくれば人々が豊かになると思っていた。でも、物質的に豊かになっても、人間ってそれで精神的に豊かになるわけじゃないんですよね。・・・物をつくるのはいいけど、それが無駄にならないようにしたいですよね。そのためには設計変数に「人間の幸せ」っていうのを入れなきゃいけない。これをつくると幸せになるはずと思いながらみんなやっているのに誰も幸せにならないとしたら、人類みんな馬鹿じゃないですか。
・・・
・・・やっぱり理系として、エンジニアリングとしての幸福学をやらなきゃいけないと思ったんですよね。・・・
・・・
―前野さんがロボットの研究から幸せの研究に行かれたとき、そこに人間の機械化の視点があったのかなと思って今回取材に来たんです。「幸福学」というのは、人間をメカニカルにシステマティックに幸せにする発想じゃないですか。
前野 まあそうですね。言われてみると確かに人間を機械として見るような視点が入ってます。僕の原点は「受動意識仮説」にあるんですよ。心は幻想であると思っている。心なんて、徹底的にない。
ここで「受動意識仮説」についてちょっと説明しておこうと思います。
まず、ここで言う「意識」とはみなさんが言う「私」に近いもので、デカルトの言った「我思う、ゆえに我あり」における「我」という意識のことです。この意識はいったいどこにあるのか?ないのか?古今東西の学者がこれについてはさまざまな見解を示していますが、いまだに意識そのものを観測することはできません。
しかし、「意識は受動的に出力される結果である」というモデルならば意識の謎をうまく説明できる、というのが受動意識仮説、前野さんの主張です。
受動的に出力される……とはどういうことか?
たとえば生物は外界の刺激に反応して動きます。それと同じように、意識というのは環境や単純な刺激によって、場当たり的に「出力」されているものだということです。動物や昆虫は環境の変化に応じて、意識する前に動いている。人間も実は同じで、ただ、そのあとで意識が出力されるのだ、というのです。
少し考えるとわかるのですが、これは妙な主張です。
なぜなら普段、わたしたちはまず「意識」の上で考えてから、その意識をもとに行動決定をしているはずだからです。「受動意識仮説」に従うなら、行動のあとに意識が発生していることになります。
ところが、実験ではそれが証明されているのです。・・・
・・・実験から「意識は存在しない」とする主張は、なにも前野さんが初めてというわけではありません。人が意識と思っているものは幻想にすぎず、自由意志も存在していない・・・
ですが前野さんはさらにその先を行き、意識の機能は工学的につくれると主張します。
・・・
―受動意識仮説はぼくも正しいと思っているんですが、世間一般の実感と猛烈に反しているのでなかなか受け入れられませんね。
前野 もともと人間って機械なんだから、それを自覚したときにどう生きるべきなのか、というのが受動意識仮説の根底にある問いです。その問いを自覚したうえで、どうせ機械なんだったら、不幸せより幸せのほうがいいじゃんって私は思ったんです。そこで幸福学に移ってきた。
・・・
―人を幸せにするロボットをつくる方向性もあったと思うんですよ。たとえば介護とかコミュニケーションの現場で役立つものとか。
前野 よく言われます。なんでそれをやらないんですかって言われるけど、幸せロボットに興味がないからですね。遠隔操作ロボットの認知の研究は一時期してたんですけど。そっちはおもしろいですよ。
―どんなものですか?
前野 手を針でちょっと刺すと痛いじゃないですか。でも、他人にそこをさすってもらうと痛みは弱まるんです。じゃあロボットがさすったらどうかというと、痛みは弱まらない。ところがそこで、「このロボットは遠隔地にいるあなたの友達が操作しているんですよ」って言うと痛みが弱まるんです。
―「人間がやっているんだ」と思うと痛みがマシになる?
前野 そうです。実際はロボットがやっているんだけど、嘘ついて「それは人間が操作しているんですよ」って言っても痛みは弱まるし、逆に人が操作しているんだけど「ロボットが人間っぽくやってるだけですよ」って言うと弱まらない。つまりロボットか人間かで全然認知が変わっちゃう。
これは松尾先生のところでも聞いた「AI効果」です。人はロボットがやっていると知った瞬間に、たいしたことがないと思ってしまう。それを逆にして、人がやっていると思い込ませることができれば、確かにこの話は理解できます。
―それはおもしろいですね……。・・・これは心の問題ということですよね。そこで言われている心っていうのは、相手が心を持っていると思うっていうこと……という。
前野 そう。そのへんには興味ありますね。いかに心を感じさせるか。・・・
・・・
―石黒浩さんは仏教関係の方と交流があるそうなんですけど、前野さんはどう思いますか。ロボット研究と仏教ってどこか共通している部分があるんでしょうか。
前野 完全に同じだと思っています、対象は。アプローチのしかたは違いますけどね。僕の本を読んで、曹洞宗の人が「普通の僧侶より仏教のことがわかってる」って言ってましたよ。
―確かに、前野さんの「受動意識仮説」も「幸福学」も宗教の言ってることにきわめて近い。
前野 そうですね、近いですね。ブッダが言ってることとも近いし、キリストの言ってることとも近いですよ。
・・・
―「幸福学」というのは、教祖がいないだけで宗教の言っていることと同じなんでしょうか。
前野 近いですね。僕は自分のやっている研究は世界平和研究に近いと本気で思っているんですが、この分野は、今まで脳科学など科学の裏付けがなかったから、宗教として扱われていたにすぎないんじゃないかと思っています。
・・・
今思えば、7歳くらいで心の幻想性に気づいたんですね。だから悩んでたんですよ。そのあと、進化的計算やニューラルネットワークにはまってたのが1990年くらいかな。・・・
・・・
・・・人間は精巧なロボットだと思ったのは・・・2000年にさしかかるくらいかな。じゃあ心だってシンプルなんじゃないかと思ったのが2004年。
―ロボティクスや進化的計算をやっていたから、気付いたわけですね。
前野 そうです。あるいは藤井直敬さんとも近いですね、ラバーハンドイリュージョンとか。何が錯覚で何が現実かってことをずっとやっていて、2004年に「すべて錯覚だ」で説明つくじゃん、以上!って思った(笑)。だからもうそこで終わりですね。悟りの境地。・・・僕の心はスカーッと晴れて、単純でただ生きてるだけという境地になった。