弱さをオープンに

まともがゆれる ―常識をやめる「スウィング」の実験

 絶妙なバランスのサポートだな、すごいなと思いました。

 

P82 Tバック/増田政男/2014

 

一まい 一まい

服を脱ぎすてて

一まいだけのこして

ふつうに近所をあるきたい

 

P83

 スウィングに増田政男さんという人がいる。彼はとにかくお金の管理が苦手でひどい浪費癖があって、自分のお金だけでは飽き足らず、同居する母親の年金にまで手をつけ、京都の繁華街に乱立するキャバクラ通いを繰り返していた。そしてそこでは複数の偽名を使い、職業を詐称し、自分ではない誰かになりきっていたという(「龍」というベタにカッコ良いっぽい名前を好んで使っていたのが増田さんらしいが、龍の職業は一体何だったのだろう)。

 この愚かな行為について、彼がその当時から武勇伝のように笑って語っていたわけではない。彼は別人(主に龍)となって豪遊した一夜の夢の後、決まって激しい自責の念に囚われ、ときには数ヵ月にわたって家に引きこもるという悪循環に、何年も何年も苦しみ続けていたのだ。この魔のサイクルから脱するまでには、本当に本当に壮絶ないろいろがあったのだが、数年前、警察も絡むような事件を引き起こしたことをきっかけに、僕は遂に、努めて晴れやかに増田さんへ提案した。何もかもオープンにしましょう、できないことはできないと諦めて、もう笑って話しましょうと。結果として彼は母親と離れて暮らすこととなり、また、あればあるだけ使ってしまうお金の管理を他者に委ねきり、つまり自らのどうしようもない「弱さ」を受け入れ、手放し、ようやく穏やかな暮らしを手に入れたのである。

 ・・・もう強がったり何かを隠す必要のなくなった安心感からか、彼の表情は憑き物が落ちたように明るくなり、ひどい年には30%だった出勤率は100%にV字回復した。そして今、彼は―かつては緊張のため、見知らぬ人が1人来るだけで仕事を休んでいた彼は―スウィングにたくさんやって来る見学者にまで、超ド級の失敗談の数々を自慢げに話したりしている(「まだその話は早いです!」と何度か止めたこともある)。

 増田さんは確かに変わった。けれど今だって彼の弱さには何の変わりもないし、彼のひとり暮らしには多くの他者が関与している。スウィングには元気なときの彼の意思によって、「ちょっとしたつまずきにドへこみして引きこもった場合」の救出用に自宅のスペアキーが預けられているし、お金の管理を委ねている居住区の社会福祉協議会には、週に1回、1週間分の生活費を受け取りに行っている。そして調理と掃除のサポートのため、週に2回ホームヘルパーが彼の部屋へとやって来るのだが、その際の彼の行動がちょっと、いや、ずいぶんと変わっているのだ。

 ヘルパーの来訪前、決まって彼は部屋を片付け綺麗にし、ときには料理の下ごしらえも済ませておく。そして空調もバッチリ快適な状態でヘルパーを迎え入れ、さらにはヘルパーが買い物に出かけている隙間時間を縫ってお風呂とトイレの掃除までしてしまうというのである。増田さん曰く、「ヘルパーさん大変なんで、できるだけ仕事減らしたいんですよ」。対して「助かってます」とヘルパーさん。そんなわけで僕はいつの頃からか彼のことを、敬意を込めて「ヘルパーのヘルパー」と呼ばせてもらっている。

「いやいや、そんなことならヘルパー要らへんやん!」と思う人もいるかもしれない。しかしながら増田さんは、ヘルパーが来るからこそ、そしてヘルパーという仕事が大変だと思うからこそヘルパーのヘルパーに身を転じ、自分ができることを、できる範囲で(けれどMAXで)しているのだ。もしこうしたきっかけがなかったならば、手が付けられないほどに住処を埃まみれにし、心を内へ内へと閉ざして生気を失ってしまう増田さんという人を、僕たちも彼自身も痛いほどによく知っている。・・・恐らく彼にとっては、「定期的に他者が訪れること/関わること」がこの上なく大切なのであり、そしてその他者が家族でも友人でもなく、接する時間も距離感も絶妙にちょうどいい「ヘルパー」であることも重要なポイントなのだと思う。

空っぽになりたい

まともがゆれる ―常識をやめる「スウィング」の実験

 ゴージャスな無駄っていいなぁ・・・と思いました。

 

P52

 たとえば野生の動物は傷を癒すために、ただじっとしているのだという。たとえば「脳を空っぽにしたい」と願い続けるミサさんは休みの日に、何をするでもなく、ただ自分の部屋でぼ~っとしているらしい。たとえばかなえさんは、スウィングの多くの人がトランプやUNOに盛り上がっている昼休みに、ただ椅子に座って足をブラブラさせていたりする。

 野生動物とミサさんやかなえさんを並べるのもどうかと思うが、僕にはこのように時間を過ごすことがなかなかできず、「いつも何かをしなければいけない感じ」に囚われている。これは、多くの現代人が罹患している「病」のようなものではないだろうか。

 ・・・

 ・・・せっかくの休日に「ただぼ~っとしている」ミサさんの、せっかくの昼休みに「ただ足をブラブラさせている」かなえさんの、「尺の使い方」のなんとゴージャスなことだろう。無駄、無駄、無駄。そこにはきれいさっぱり、ゴージャスな無駄しかない。けれどそんな「何もしない時間(何もしていないように見える時間)」が人を休息させたり回復させたり、メチャメチャ大切なのだと思うし、ふたりが柔らかに発しているのは「せっかく生まれてきたのだから」という強迫的な押しつけではなく、「

どうせいつかは皆、死ぬから安心して。ね?」という、ついつい忘れがちな真実なのかもしれない。

 ……てなことを考えているとQさんが最近書いた大量の詩を見せに来てくれて、そのなかのひとつに冒頭の「Swingとは」があった(「天使らんまん。」て!)。ありがたい、ものすごいタイミングで放り込んでくれたものだ。そうだそうだ、僕はこういう場所で仕事をしているんだった。

 

P50 Swingとは/Q/2017

 

オラSwingとはなにか。

それは、

自由気まま。

天使らんまん。

なんでもありの、

場所であり。

好きな時に、

仕事をして、

お金をもうけたり。

もうけなかったりする。

所である。

 

P122 脳天気/辻井美紗/2013

 

自分は脳天気にくらしたい

今まで以上に脳天気にしたい

考える事もしたくない

のびのびと脳天気になりたい

脳を出しきって

空っぽになりたい

 

P206

 ギリギリアウトをセーフに。どうしようもない弱さを強さに。そして、たまらん生きづらさをユーモアに。熱い理想を胸に口火を切って早12年。世の規定値を疑い、迷いと葛藤の絶えない歩みの中、それでも希望と突破口を与え続けてくれたのは、多くの人の「驚くべきいい感じの変貌」だったように思う(ヘタクソか!)。

 いつも下ばかり向いていた増田さんが子ども相手にヒーローを演じるなんて。あんなに暴力的だったQさんが初対面の人の似顔絵を描くなんて。不安と緊張だらけのかなえさんが朝礼で発言するようになるなんて。でも増田さんは、Qさんは、かなえさんは、本当に「驚くべきいい感じの変貌」を遂げたのだろうか。何だか少し違う気がする。たぶん彼らは変わったのではなく、本来の、混じり気のない、素っ裸の自分へと還っているのだ。進歩とか成長とかではなく、知らず知らず背負ったり背負わされたりした荷物を少しずつ下ろして身軽になってゆくような、乾燥して縮んだワカメが水で戻ってゆくような、見失ってしまった三つ子の魂を取り戻すような、そんな感じなのではないか。

まともがゆれる

まともがゆれる ―常識をやめる「スウィング」の実験

「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」の中にこの本が引用されていて、ぜひ読みたいと思いました。期待通り、とても興味深い内容でした。

 

P5 

 僕が主催する「スウィング」は京都・上賀茂で活動するNPO法人である。以前に勤めていた福祉施設で、僕自身が苦しみ続けた「こうあるべきまともな姿」から大幅にはみ出した「障害者」たちと出会い、彼らとなら何か新しいことができるかもしれないと、2006年、ありあまる熱意半分、やけくそ半分で設立した結果、13年目を迎えた今も地道な活動を続けている。法人の理念は「Enjoy! Open!! Swing!!!」。閉塞感漂うキナ臭い世の中を、それでも楽しもうとする姿勢や気概を持つこと。固定化し、硬直しがちな組織や人との関係性、そして弱くてちっぽけな自分を開くこと。諸行無常の世に身を委ね、柔らかにしなやかに軸をぶらさず揺れ続け、変わり続けること。この3つをシンプルな言葉で表したつもりだ。

 障害者総合支援法という法律に則った福祉施設でもあるスウィングには、毎日15~20名の障害者がやって来て、絵を描いたり、詩を書いたり、戦隊ヒーローに扮して清掃活動を行ったりと、一般的なそれとはずいぶん違う様々な仕事を行っている。障害者と一言で言えども知的障害、精神障害発達障害、身体障害、いくつかの障害を併せ持つ人などそれぞれ。また、障害者という言葉がイメージさせる生きづらさなんてまったく感じさせず、目の前の日々を楽しんでいるようにしか見えない人もいれば、社会が規定するまともからはじかれ、ひとりでは抱えきれないような生きづらさを味わってきた人もいるし、そもそもそうした社会的なあれこれを理解できない人もいる。一方、スウィングでは少数派である若干名の「健常者」たちは、(僕も含めて)むしろ心身健やかなふうには見えない場合が多く、人を便利に一括りにしてしまうラベルは、やっぱりただのラベルにすぎないことを僕たちはよく知っている。

 ・・・

 社会を断罪してもしょうがないし、人ひとりが生きるということにセオリーや方法論なんてない。本書が、固定化された「まとも」を見つめ直し揺らしたりずらしたり、このろくでもない社会に傷付き戸惑う心優しき人たちの生きづらさを緩め、一息つきながら生きてゆくための少しのヒントになればいいなと願っている。

 

P16

 先日、遠く長崎から見学者がやって来て、スウィングの風景にえらく感動して帰ってくれた。雰囲気が自由であること、「ヘンタイ」が褒め言葉として当たり前に使われていること、そして何より「朝礼でたくさんの人が発言する様子」に目を輝かせてくれたことが嬉しかった。

 ・・・

 朝礼(や終礼)では「本当にどうでもいいこと」を、本当に多くの人が発言する。昨日の晩ご飯のおかずとか、昨日のスウィングからの帰り方(毎日いっしょ!)とか、家に帰ってからこんなことがあったとか、週末にはこんな予定がある(その日が来るまで毎日のように同じ情報がプレゼンされる)とか。笑ってしまうくらい本当にどうでもいいことが飛び交うのだが、僕は本当にどうでもいいことを言い合えるこの自由な雰囲気が、とてつもなく大事だと考えている。

 ・・・

 学校教育の場をはじめ、どうでもよくないことしか口に出しちゃいけないような空気の中で多くの時間を過ごしてきた人たちが、本当にどうでもいいことがセーフゾーンどころか、どストライクゾーンとなったこの空間でまさにその人自身の言葉を取り戻し、声を発するようになり、そうした積み重ねの上に、彼らの自由な仕事や表現が生み出されているように感じる(また、そうした雰囲気は言葉を持たぬ人にも伝わってゆくものだとも思う)。

 スウィングのモットーのひとつに「ギリギリアウトを狙う」がある。だから始業時間はまちまちだし、眠くなったら昼寝をすることが奨励されているし、特に理由もないのに休みを取る人には拍手が送られる。知らぬ間に僕たちの内面に巣くってしまった窮屈な許容範囲の、ちょっと外側に勇気を持って足を踏み入れ自己規制を解除し続けることで、かつてはアウトだったものが少しずつセーフに変わってゆき、「普通」や「まとも」や「当たり前」の領域が、言い換えれば「生きやすさ」の幅が広がってゆく。

 それは決して難しいことではなく、「自宅の電化製品の状況」という誰も知りたくない情報や、「忍者になりたい」という永遠に叶いそうもない夢を語ることがナイスとされる時間と空間の中で、日々更新され続けているのである。

受け身

極北へ (毎日文庫)

 石川直樹さんの極北探検の記録、興味深く読みました。

 そして巻末の解説にあったこの文章が印象に残りました。

 

P216

 人がなんらかの目標を定め、それを達成する「ために」逆算して行動するとき、人の視野は狭くなり、環境や条件のすべては「自分がコントロールすべきもの」ととらえられる。高い山の環境など人間がコントロールできるはずがないことは承知で、それでもコントロールすることをひとつの理想形と考え、理想形に足りないものを埋めていく形で努力する。これは、人間が万物の霊長であり、最終的にはすべての自然に優越すべきなのだという考え方と通底する。

 石川直樹はぜんぜん違う。なにかをコントロールしようとしないし、そもそもコントロールすべきだという発想がない。山と自分も、他者と自分も、対等の存在である。

 若き日に、世界を旅して生きていきたいと思い、まだ見ぬ何かを探してさまよっているとき、カヌーイストの野田知佑に会う。野田の著書が魅力的だったから本人に会いに行ったのだが、うちあけた進路の悩みに対して「大学に行け」と言われ、意外だと思いながらそれに従う。主体性をアピールして抗う姿勢が少しもない。

 北米大陸の最高峰デナリに登ったあとに訪れたアンカレジでは、ふらっと立ち寄った書店で冒険家の河野兵市に遭遇する。それはほんとうに偶然のことで、その直前に買うつもりもないのに毛皮屋などを覗いていたためにそのタイミングで書店に入っただけなのだという。短い会話をかわし、河野につられて同じ写真集を買う。のちにレゾリュートで再会するが、それが生きた河野を見た最後となる。

 主体性をもって出会いを実現するのではない。相手もチャンスもタイミングも、なにもコントロールしない。偶然の巡り合わせや相手の意外な反応を、ただすっと受け入れる。石川直樹の書く文章の底には、いつもこうした自然体の「受け身」が横たわっている。それがわたしの心を動かすもとになっているのだと思う。

 ・・・

 芸術家はいつも、自分の力の及ばないものとともに生きている。こういうものを実現したいという願いが最初にあったのだとしても、自分のなかにある「美」の強烈な魅力だけを指針に、暗闇を走りまわるような試行錯誤をして、その結果、思ってもみなかった要素を呼び込んでしまう。それこそが「作品の成立」であり、自分がコントロールできないものを招き寄せることが芸術家の資質である。

 石川直樹は冒険家であるよりは芸術家であり、わたしは同じことばの使い方をする仲間を求めてかれの文章を読むのだろう。わたしもまた、「受け身」で生きる人間だから。われわれの「受け身」は、遠いところにある超越的なものを、いつまでもじっと見続けるためにとる姿勢である。 (詩人)

酒場學校の日々

酒場學校の日々 フムフム・グビグビ・たまに文學

 金井真紀さんの本はどれも面白いな~と、見つけた順に読んでいます。

 

P10

 學校という酒場にたどり着いて、そこで半世紀近くママをしている禮子さんに会ったのは二〇〇八年のことだった。たまたま目にした新聞記事に、新宿ゴールデン街の「學校」という店が紹介されていた。かつて詩人の草野心平が開いた店が、場所を変えていまも営業を続けているというのだ。

 

P158

 禮子さんのはなしに登場する心平さんは、いつも穏やかだ。ゆっくりと言葉を選ぶ禮子さんの表情に、ふたりで過ごした時間の滋味がじんわりとにじむ。

 心平さんは余計なことを言わない人。こちらから何か聞かない限り、ずーっと黙ってますねぇ。自分から喧嘩になるようなことを言ったりはしないし、ほんとに無駄なこと、余計なことは言わない人。

 ・・・

 心平さんとはどれだけいっしょにいても気詰まりがないの。心平さんのおうちにいると、「レイちゃん、なんかつくろうか?」なんて言って料理をしてくれました。畑をしてらしてね、ご自分で育てたお茄子とかキュウリで料理してくれました。もちろんお酒もあってね。後片付けはあたしがしました。その頃、テレビもなかったと思うの。ラジオを聞くなんてこともあんまりなかったし。ふるたんぼのこととか、太郎のはなしとかね、そんなことを話していたんでしょうかね。それも密に話すという感じじゃなくて、「こんなこともあったんだよ」とか「それは太郎らしいな」なんてね、そのくらいのこと。それから飼っている犬のはなしとか、鯉のはなしとか。

 ・・・まぁ、なんでしょうねぇ、おじさんと姪っ子みたいな感じだったのかしら。

 心平さんが親戚のおじさんだったら、ずいぶんおもしろかっただろうと思う。たとえば昭和二十四年に育ての母が亡くなったとき、四十六歳の心平さんは葬式でこんな挨拶をする。

 

 母さんが亡くなられたのは残念です。ことに物資や金もなく、悪い環境のなかで亡くなられたのは気の毒です。もっと生きていてもう少し安心して死んでもらいたかったと思います。けれどもいまの状態では楽しく生きてもらえるのはいつか見当もつきません。あの世の方が安穏かもしれません。兎も角、いまになってはもう、あの世で永生きしてもらうよりほかありません。そこで母さんの万歳をとなえたいと思います。

草野心平著「葬式の万歳」/「新論」一九五五年)

 

 それで兄弟、親戚一同そろって、まじめに万歳を唱和したという。心平さんはそのときの心境を「なんとも変にかなしかった。」と書き残している。「あの世で永生きしてもらう」だって。万歳だって。なんだろう、この、筋が通っているような、いないような、へんなおかしみは。

一人飲みで生きていく

一人飲みで生きていく

 稲垣えみ子さんの本、今回も面白かったです。

 

P8

 今にして思えば「男はつらいよ」の車寅次郎に憧れて一人飲み修行を始めるなんて、随分野心的なことを考えたもんです。だって何と言ってもあれは映画です。ありそうでもありえない話だからこそ面白いのです。現実は甘くない。一人飲みができるようになったぐらいで、寅さんみたいな自由すぎる人生が過ごせるなんて、んなことあるわけない。

 ……と、思うでしょ。

 しかし現実とは恐ろしい。奮闘努力の甲斐あってなんとか傷だらけになりながらも修行を終えた私、よほど酔いが回ったのか、50歳で長年勤めた会社をあっさり早期退職しまして、以来、夫なし子なし定職なし、仕事をしたりしなかったりしながら、近所のおっちゃんおばちゃんと「今日は蒸すね~」「今から銭湯?」などと声をかけ合いつつのほほんと暮らすという、まさにフーテンの寅のごとき生活を始めたのです。

 もちろん、周囲にはさんざん驚かれた。・・・

 ・・・でも本人はデンと構えているんだよ。実のところこんな人生もありなんだとほくそ笑んでいる。いやほんと。

 一体なぜなのか。

 結局ね、一人飲みを通じて、生きていくのに本当に必要なものはお金じゃないってことがわかったんだと思う。

 いやもちろん、お金は大事です。お金が全くなけりゃ一人飲みもできんからね!でも、お金はあればあるほど幸せになれるってわけじゃない。いやむしろ、意外なほど少ないお金でも十分幸せにやっていける。

 

P147

 ・・・私が初めて一人飲みに挑戦した店、大阪は天神橋にある小さな気取らぬ名店「酒や肴よしむら」店主の吉村康昌さん・・・

 ・・・

 最近つくづく思うんですけど、今コロナで大変なことになってるからこそ、「一人飲み」がますます大事になってくるんと違いますか。一人飲みできる人って、家と会社以外にも、ちゃんと自分の居場所を持ってる人です。・・・自分が心から信頼できる店、安心してリラックスできる店があるかないかで人生全然変わってくる。そういう場所を見つけるには、ネットで見た話題の店とか、予約の取れない店をいくら追いかけてもダメなんです。一人で飲んで、お金やなしに、情報やなしに、ほんまの自分と向き合う。店と向き合う。上下関係なしに隣の人と向き合う。そういうことをしたことない人が、案外多いんですよね。だから勇気を出して、是非挑戦してほしいと思いますね。

 ・・・

 いや私、改めて思いました。これって本当にすごい場ではないか。

 家でも会社でもなく、血縁関係も利害関係もない。でもそこに行けば、お互いがお互いを緩く受け止め合える場所。いつ行っても誰かがそこにいて、仕事やら家族やらへの愚痴も泣き言も笑って聞き流してくれる場所。人生の豊かさを決定づけるのは金でも名言でも地位でもなく、こんなふんわりとした「第三の場所」を持っているかどうかなんじゃないだろうか。

 

P200

 ・・・一人飲みとは単に一人で飲み食いすることではない。自分の心地よい居場所を自分で作ることだ。そのために必要なのは一にも二にも「周囲への気遣い」である。自分がどうしたいかはひとまず脇に置いておいて、場の雰囲気を良くすることを精一杯やる。結局、みんなが良くなれば自分も良くなるのだ。それは、少なくとも私には革命的な発想の転換であった。何しろ人のことよりまず自分のことという競争社会の常識とは真逆である。でも実際にやってみれば、その効果は「競争社会の常識」なんぞはるかに超える、絶大な効果を発揮した。・・・

 ・・・このたびの非常時にあっても。私は我が一人飲みの経験に助けられた。誰もが未知の事態に怯える中で、自分のことよりも何よりも、何はともあれ近所の馴染みの店や、そこで縁を得た幾多の友達を支えようと思えたことが私自身を支えた。声をかけ、足りない物を融通し、できる範囲で店に顔を出した。すると同じだけの、いやそれ以上の気遣いや物が帰ってきた。つまりはこのたびのことで私を取り巻く周囲の絆は間違いなく深まったのである。これはもう全く、一人飲み修行のおかげであった。

 ・・・

 私は本書において結局のところ何を書きたかったのかというと、それは、人の「自由」とは一体どこに存在するのかということだったのだと思う。

 自由になるとは一体どういうことか。

 圧倒的多数の人は、自由とはお金であり権力であると思っている。・・・

 でも実は、自由になるってそういうことじゃないんだとしたら。・・・

 それを知ることはもう間違いなく、人生における革命を引き起こす行為である。

 ・・・そう一人飲みとは、人生の罠から抜け出し、真に自由な人生を歩き出すための第一歩なのである。

もっと気楽に

feel FRANCE 100 言葉と写真で感じるフランスの暮らしとスタイル

 

 哲学者や芸術家の言葉が、きれいな写真と共に紹介されている本、きれいだな、おもしろいな、と気楽に読みました。

 その中の1ページ。

 

P47

 人生なんてもっと気楽に考えたらいい。

 生きている限り、人生に終わりはないのだから。

 Ne prenez pas la vie trop au sèrieux, de toute façon, vous n'en sortirez pas vivant.

 ベルナール・フォントネル(著述家) 1657-1757

 

 確かに、生きている限り終わりはないですね~、うまいこというな、ベルナール・フォントネルって誰だろう、300年も前の人なんだ・・・と思いつつ見ていたら、え?あの当時100年も生きたの⁈とびっくり。

 この気楽さが長寿の秘訣かしらと思ってみたり・・・

 どんな人なんだろう?と検索してみたら、面白そうな本を書いた方でした。

「世界の複数性についての対話」

世界の複数性についての対話 (プラネタリー・クラシクス)

 著者紹介にはこのように書いてありました。有名な方だったのですね・・・ほんとにまだ知らないことがたくさんあります。。。

 

 ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネル Bernard Le Bovier de Fontenelle
 1657年2月11日、ルアン高等学院の弁護士を父に、悲劇作家コルネイユの妹を母に生をうける。
 最後のリベルタンにして最初の啓蒙思想家。1757年1月9日、百歳の誕生日を33日後に控え永眠。
 前半生は『新篇使者の対話』(1683)や『世界の複数性についての対話』(1686)の著者として文壇で活躍。1699年、王立科学アカデミーの終身書記に就任以降はサロン文化と科学界のオルガナイザーとして精力的に活動する。
 ライプニッツニュートンの弔辞など、後代の範となる頌辞ややアカデミー史を残すかたわら、宗教批判の書『神話の起源』(1714)を地下出版するなど、自らの思想の裡にも終生多元性を保持した。
『世界の複数性についての対話』は出版されるや、たちまち大ヒット。著者存命中に33回、その後も現在まで40回近くは刊行されている。翻訳も30種類の英訳を筆頭に、イタリア、ドイツ、オランダ、近代ギリシア、ロシア、スペインの各国語版があり、歴史的ベストセラーとして広く愛読されている。