受け身

極北へ (毎日文庫)

 石川直樹さんの極北探検の記録、興味深く読みました。

 そして巻末の解説にあったこの文章が印象に残りました。

 

P216

 人がなんらかの目標を定め、それを達成する「ために」逆算して行動するとき、人の視野は狭くなり、環境や条件のすべては「自分がコントロールすべきもの」ととらえられる。高い山の環境など人間がコントロールできるはずがないことは承知で、それでもコントロールすることをひとつの理想形と考え、理想形に足りないものを埋めていく形で努力する。これは、人間が万物の霊長であり、最終的にはすべての自然に優越すべきなのだという考え方と通底する。

 石川直樹はぜんぜん違う。なにかをコントロールしようとしないし、そもそもコントロールすべきだという発想がない。山と自分も、他者と自分も、対等の存在である。

 若き日に、世界を旅して生きていきたいと思い、まだ見ぬ何かを探してさまよっているとき、カヌーイストの野田知佑に会う。野田の著書が魅力的だったから本人に会いに行ったのだが、うちあけた進路の悩みに対して「大学に行け」と言われ、意外だと思いながらそれに従う。主体性をアピールして抗う姿勢が少しもない。

 北米大陸の最高峰デナリに登ったあとに訪れたアンカレジでは、ふらっと立ち寄った書店で冒険家の河野兵市に遭遇する。それはほんとうに偶然のことで、その直前に買うつもりもないのに毛皮屋などを覗いていたためにそのタイミングで書店に入っただけなのだという。短い会話をかわし、河野につられて同じ写真集を買う。のちにレゾリュートで再会するが、それが生きた河野を見た最後となる。

 主体性をもって出会いを実現するのではない。相手もチャンスもタイミングも、なにもコントロールしない。偶然の巡り合わせや相手の意外な反応を、ただすっと受け入れる。石川直樹の書く文章の底には、いつもこうした自然体の「受け身」が横たわっている。それがわたしの心を動かすもとになっているのだと思う。

 ・・・

 芸術家はいつも、自分の力の及ばないものとともに生きている。こういうものを実現したいという願いが最初にあったのだとしても、自分のなかにある「美」の強烈な魅力だけを指針に、暗闇を走りまわるような試行錯誤をして、その結果、思ってもみなかった要素を呼び込んでしまう。それこそが「作品の成立」であり、自分がコントロールできないものを招き寄せることが芸術家の資質である。

 石川直樹は冒険家であるよりは芸術家であり、わたしは同じことばの使い方をする仲間を求めてかれの文章を読むのだろう。わたしもまた、「受け身」で生きる人間だから。われわれの「受け身」は、遠いところにある超越的なものを、いつまでもじっと見続けるためにとる姿勢である。 (詩人)