ボビー・オロゴンさん

1週間の食費が300円だった僕が200坪の別荘を買えた本当の理由

 戻りました。ブログ再開します(^^)

 

「僕は、お金を儲けようと思ったことはないんです。お金を追いかけるより、自分の力を使って、お金に好かれる生き方をすることのほうがずっと大事なんじゃねえのって思います」

「お金に好かれる人になるには、自分が毎日どんなふうに生きていくかが大事になってくる」

 本のタイトルはちょっと・・・(;^_^Aでしたが、はじめに、にこんな風に書いてあって興味を持って読んでみました。

 面白かったです。

 

P180

 日本に来るまで、僕は「うつ」とか「ストレス」という言葉があることをマジで知らなかったんだ。

 ナイジェリアでは男も女もとにかく明るくて、でかい声でずっとしゃべってる。うつになったり、ストレスを感じたりするヒマなんてない。

 僕の育った村では、涙が出るほど笑いあえるのがいい仲間だと言われててさ。大人でも友だち同士で話すときは泣きながら大笑いしてた。

 いつも大声だから、怒ってても誰も気づいてくれなくて、「ちょっと!オレは今怒ってるんだからな」と言わなきゃいけないんだ。ホントの話!

 でもナイジェリアの失業率は、今8パーセント強。ひどいときでは、20パーセント以上もあった。ひどい数字だよね。日本と経済的な豊かさは比べようもない。でも、みんなけっこう楽しく生きてるんだ。

 日本は今不況で、確かにお給料が減ったり、事業の業績が上がらなかったりして、苦労をしている人は多いかもしれない。

 だけど、人が大変な思いをしていたり、不況だと言われてるからといって、自分自身まで悲観的になる必要はないと僕は思うんだ。

 みんなが「ダメだ」と言っているから、自分も「ダメだ」と思ってしまうと、うまくいくものもいかなくなってしまうからさ。

 ・・・状来をネガティブに考えたり、やたら心配したりしなくても大丈夫。

 だってみんな、数十年間はちゃんと生きてきたんだからさ。

 僕がこう言うと「いいや、私はちゃんとしてきてないです」と言う人がいるけど、ちゃんとしてなかったら、今まで生きてないって!

 だから、いろんな情報に洗脳されないでほしいなあって、思うんだ。

 今の環境や起きた出来事を、いかに自分のために使えるかが重要だから。

優しさの場所

加油(ジャアヨウ)……! 五輪の街から (朝日新書)

 図書館の棚を眺めていて目に留まり、読んでみました。

 北京五輪の周辺取材物語で、文化や情報や環境など色々なものによって価値観や考え方が違ってくる、ほんとにいろんな人がいる・・・ということが興味深かったです。

 

P110

 ゆうべ、成都の街でちょっと面白い出来事に遭遇した・・・かなり間抜けな、しかし、日本と中国の「違い」を象徴しているような、忘れがたい出来事だった。

 ・・・成都市内で夕食をとったのである。Y記者と李さんと三人そろってテーブルを囲むのは、これが初めてである。・・・薬膳料理の店に出かけた。

 美味かった。ことに烏骨鶏をまるごとグツグツ煮込んだ鍋仕立ての薬膳スープは、薄味なのにコクがあって、まさに滋味あふれる味だった。量も多い。というか多すぎる。・・・女性二人と、食べ過ぎを厳に慎まなければならない痛風持ちのオヤジでは、とても食べきれない。

 残ったぶんはホテルの部屋に持って帰ることにした。僕たちだけではない。まわりの皆さんも食べ残しはどんどん持ち帰っている。お店のひとも慣れたもので、皿に残った料理を一目見ただけで、サイズによって何種類かある持ち帰り容器の中からぴったりのものを選んで持ってくる。・・・

「スープも持ち帰りましょう!わたし、あとで飲みます!」とY記者が言った。それはさすがに無茶なんじゃないか……と僕はためらったのだが、彼女は「コラーゲンです!わたしの肌にはコラーゲンが必要なんです!」と譲らない。

「でも、液体だぜ?」

「なんとかしてくれます!」

 Y記者はさっそく李さんを通じて、お店のひとにスープの持ち帰りをお願いした。

 さて、ここでどんな容器が出てくるか。

 密閉容器を持ってきて、容器代を追加請求するか。あるいは、紙コップにスープを注いでラップで蓋をするか。僕の予想ではこの二つのうちのいずれかだったのだが、中国恐るべし、しばらくたって戻ってきた二人連れの女性店員の手には、レジ袋があったのである。

 唖然とする僕たちをよそに、一人の店員が二重にしたレジ袋の口を広げ、もう一人の店員が鍋を持って、レジ袋に鍋の中身をどぼどぼどぼどぼどぼ……っ。

 ムカッときた。残飯じゃないんだぞ、と文句をつけたくなった。

 ・・・もうちょっとなんとかしてくれよ、と言いたい場面にしばしば出くわしてしまう。

 やれやれ、今夜もそのパターンかよ……と・・・たぷたぷとふくらんだレジ袋を膝に置いたY記者が、不意に声をあげた。

「シゲマツさん、お湯です!」

「うん?」

「お湯が入ってます!」

「スープだろ?」

「じゃなくて……レジ袋の間にお湯が入ってるんです!」

 レジ袋を二重にしたのは、熱くて重いスープを入れても耐えられるようにするため、ではなかった。保温用である。スープを熱いまま持ち帰れるように、との気づかいだったのである。

 うーん、とうなった。

 まいっちゃったなあ、と首をひねりながら苦笑した。

 僕が店員なら、やはりいくらなんでもレジ袋は使わないはずだ。その代わり、冷めないように、という発想もなかっただろう。

 ・・・これ、どちらが「正しい」かの話ではないだろう。発想や価値観の「違い」なのだ。優しさの「違い」だと言ってもいい。

 さっきの僕はレジ袋を見ただけで、店員の優しさのなさに憤然とした。

 だが、彼女たちの優しさは、僕には思いもよらないレジ袋の中にひそんでいた。

 ・・・優しさが「ない」のではなく「場所が違っていた」だけなのだ。

 

 

 ところで、ライフラインのお手伝いに行ってくるので、

ライフライン | モンロー研究所公式プログラム | Aquavision Academy アクアヴィジョン・アカデミー

一週間ほどブログをお休みします。

 いつも見てくださって、ありがとうございます(*^-^*)

肯定的に歯車になる

しょぼい生活革命

 少し前の時代の産業構造と、教育方針がつながっていたとは、言われてみればなるほどでした。

 

P202

朝日新聞にも出ていましたね。令和時代を代表する若者として。

 

矢内 あまり特別なオンリーワンにならなくていい時代になると言いました。平成はある特殊な能力や特別な資質を求めてきた時代でした。要するにオンリーワンになるために・・・でもこれからは、自転車をちょっと持ち上げるような、家庭内において僕しかできない、そういった形で社会的な存在価値を持っていく時代だろうと言ったんです。

 ・・・

 ・・・「僕が死のうが世界は回る」ではないですが、世の中の歯車になることをもっと肯定的に捉えていきたい。

 ・・・

 学校は、個々の体調はとりあえず無視して、みんな早起きして同じ時間に登校して、一斉に同じ教科をやらせますが、それで多くの人間の身体性を損なっているんです。だけどそれよりも工業生産に適した人間をつくるほうが優先されてきました。だからオンリーワンではない。

 ・・・

内田 「ワン」というのが僕はなんだか納得がゆかないですね。キーワードは「複雑」ですから。えらてんさんだって、1分前と今ではもう別の人間になっている。新しい経験を一つするたびに、言葉を一つ聞くたびに、過去の記憶はそのつど全部再編されている。・・・

 僕は「オンリーワン」とか「アイデンティティー」とか「自分らしさ」というような言葉が嫌いなんです。いいじゃないですか。自分がいつも自分らしくなくても。だって、人間って複雑なんですから。・・・

 ・・・「自分探し」とか虚しいことはもうやめましょうよ。そんな固定的なものは存在しないんだから。・・・それよりは星雲状の、アモルファスな存在でいて、あちこちにいっぱい穴が開いて、そこからいろいろなものが出入りしている、そういう複雑なシステムとして自分をとらえてみたらどうです。

 学校教育は戦後のある時点から「工業製品を作る」という産業形態に準じて、制度設計されるようになりました。・・・だから、少しでも仕様と違うと欠陥品としてはじき出される。・・・

 その前の時代、僕が初等中等教育を受けているころは、学校教育は農業のメタファーで語られていました。種子を蒔き、肥料や水をやって、あとは太陽と土壌に任せておくと、収穫期になると「何か」が採れる。本質的に農産物は自然の恵みであって、人間が100パーセント工程管理することなんかできない。実際に教師も親もそう考えていた。でも、それは単に1950年代までは、日本人の50パーセントが農業従事者だったから、自分たちがふだんやっている産業形態のイメージをそのまま学校教育に当てはめたというだけのことなんです。そういうものなんです。

 学校教育に僕たちが当てはめるイメージというのは、その少し前の時代に支配的だった産業構造を惰性的に模写したものに過ぎないんです。・・・

 

お金が退屈する?

しょぼい生活革命

 お金はサッカーのボールと同じ、というたとえ、なるほどなぁと思いました。

 

P95

預言者ムハンマドは、使ったお金だけが財産だとおっしゃっています。あるいは贈与したものは必ずそれ以上になると、モースも言っていました。

 

内田 そうですね。欲しいものは、それをまず他人に与える。そうやって迂回的にしか欲しいものは手に入らない。

 ・・・

 難しいのは、贈与って才能が要るんですよ。「10億円あったらどんな贈与ができるかな……」ということばかりふだんから考えている人しか、10億円が思いがけなく入ってきたときに対応できないから。

 ・・・

 3日以内に10億円使おうと思ったら、人にあげるしかないんです。でも、そのためにはつね日頃から、「ああ、ここにどかんとお金があったら、あの人とあの人とあの人にあげたいなあ」という夢想をしていて、そのための長大なリストを作成している必要がある。・・・「贈与したい人リスト」を持っている人は、実はふだんからその人たちにたとえ少額ずつではあっても贈与する習慣がある人なんです。「前回は100万円しかあげられなかったけれど、今回は資金潤沢だから1000万円あげられるよ」「わあ、いつもありがとう」という関係においてだけ贈与と嘉納の関係は成り立つ。・・・

 ・・・

矢内 友人の池田達也がやっている「しょぼい喫茶店」も、実はカイリュー木村という男が投資してできたんです。その原資は仮想通貨で300万円ぐらい儲かったから、100万円ぐらい投資しようか、みたいなお金(笑)。

 

内田 それは正しいですよ。あぶく銭は手に入ったらすぐにパッと配るといいことがある。悪銭身につかず。あぶく銭を退蔵したら罰が当たります。

 

矢内 分配していきたい、本当に。

 

内田 あまり知られていないことですけど、貨幣は予想外の使い方を喜ぶんです。これくらいのお金があったら、ふつうはこういうことに使うよね、というようなつまらないことに使うと、お金の流れは途絶してしまう。お金って退屈するんです。・・・だから、思いがけない使い方をすると、すぐに思いもかけないところから、思いがけないお金が入ってくる。

 ・・・

 貨幣は使用価値ゼロの商品なんです。何かと交換する以外に何の使い道もない。・・・サッカーのボールと同じなんです。・・・ボールを抱えたままで、動かないプレイヤーがたまにいますけれど、そういうプレイヤーにはそのうち誰もパスしてくれなくなる。ボールが集まるのは、一番ファンタスティックなパスコースを見出せるプレイヤーのところです。・・・貨幣もそれとまったく同じなんです。

しょぼい生活革命

しょぼい生活革命

 内田樹さんとえらいてんちょう(矢内東紀)さんの対談本、興味深く読みました。

 こちらは、矢内さんのご両親が全共闘の生き残りだという話から続いたところです。

 

P35

矢内 個人主義の否定というのが一つの観念としてあって、マルクスは人間を個人ではなく、類的存在であると言います。全共闘もそうで、僕の家でもそうでした。・・・

 僕の家においては、革命的か反革命的かということが測られていて、僕は革命的であろうとしたのですが、すると、現実には、個人主義の否定が行われるのです。個人主義の否定とは具体的に言うと、ある団体やある党では、一つであることが求められます。・・・結果、何が起きるかというと、他人のことを自分のように扱ってしまう。要するに他人も私と同じように思考して行動できるはずだと思ってしまう。それに基づいて行動して、失敗したことがあるんです。最近ようやく個人主義というか、個人という単位がある種の意味を持っているとわかってきました。

 ・・・

 私は朝起きるのがかなり苦手なんです。今日はこの対談を楽しみにしていたから起きられましたが、普通ならまずムリです。夜遅くなら午前2時とか3時でも大丈夫なんですけど。でも社会一般においては、朝起きることを求められます。実家でも、学校や会社においてもそうです。僕は朝起きられないから、午前中の仕事をなるべくはずして、午後2時から仕事を始めようと決心したら、すごく楽になりました。でもその流れで、たとえば夜11時に仲間たちを招集していると、ほかの人たちにとっては大変に厳しいと気が付いた。要するに組織として。

 それからは政治的な何かパッとしたことができるとしても、それを身体性に依拠しないやり方ではやってはいけないと思っています。個人の思考と身体が統合したところの個人の欲求をできるだけ聞いて、その最大公約数となる点でしか、共闘はできないだろうと。だから個人の適性をよく見るようにしようと思っています。たとえば僕の仲間の木村は、永久にクルマの運転ができるんです。

 

内田 永久にできるんだ(笑)。

 

矢内 本当に何時間でもできるんですよ。3日間ほとんど寝ずに運転して、僕が「ちょっと休んだほうがいい」と言ったら、「じゃあ休みますわ」と言って5分寝て、また運転する。私にはとてもできないのですが、ただし彼は電車に一切乗らないんです。

 それくらい人間というのは多様です。左翼は、多様性を尊重するとか、保守派の小池百合子も言っていますけど、多様性の尊重というのは言葉では測れない、とても重い言葉です。

だれにでもできるからこそ・・・

患者の話は医師にどう聞こえるのか――診察室のすれちがいを科学する

 コミュニケーションによって、薬を使うのと同じくらい痛みがなくなることがある、という事実を、すんなり受け入れられないのにはこんな理由が・・・たしかに簡単すぎることってありがたみがないというか、そういう心理が働くものだよなと印象に残りました。

 

P106

 ・・・医師がとるべきステップを具体的に特定している質の高い研究のほぼすべてで、よりよいコミュニケーションが患者満足度の向上につながることを示している。医師が開かれた質問を増やすようにすることであったり、患者から懸念をひきだすことであったり、会話の話題を明確にすることであったり、病気以外の患者の生活について尋ねることであったり、治療計画を選ぶときに患者を参加させるようにすることであったり、単に共感を示すことであったり―こうしたスキルのどれであってもより注意深くおこなうことで、コミュニケーションは容易に改善される。さて、こうしたタイプの研究を医療関係者に紹介すると、いつも結構な割合でため息が聞こえたり、またかという顔をされる。・・・インチキ臭いコツや名人芸のたぐいの話と考えてそわそわしはじめる。・・・

 ・・・気持ちはわかる。このタイプの技術は「本当の」薬のようには感じられないし、ほとんどの医師の直感的な反応は、脇によけておけというものである。・・・科学的な根拠があっても、私たち医師はいまだにこのようなソフトな研究結果を受け入れがたいと思っている。

 医師がなぜそこまで警戒しているのかを分析してみて、私は二つの理由を思いついた。一つはコミュニケーションやかかわり、共感といった医療の無形要素は血糖値や脳卒中の数と比べて、測定が難しい点である。・・・さらに、コミュニケーションや共感のための処方箋を実際に書くことができないので、他の治療法のようなリアルさを感じられない。・・・

 しかし、二つ目の理由は私が思うにより深いものである。コミュニケーションや共感、かかわりは・・・いってみればだれにでも使えるものである。・・・

 そこに問題がある。・・・専門的な知識を必要としないなにかは、唯一無二の医学知識を得るための訓練に一〇年間を(さらに学生ローンで借りた一〇万ドルも)ついやしてきた医師からすれば、脅威に感じられる。私が言いたいのは、よいかかわりをするコミュニケーターになるためには大汗をかく必要がなく、しかも患者の痛みを半減できるのであれば、なぜやろうとしないのか?思うに、このようなシンプルさ、大汗をかく必要がないこと自体のために、サイエンスという枠の中に自分自身をはめ込んでいる私たち医師からみれば、こうしたスキルはあいまいで単純すぎるものに見えてしまうのだろう。何世紀も前からシャーマンが使用している技術が、一〇〇万ドルかけた大規模臨床試験の裏づけがある医薬品と同じくらい効果的であるという話には、なにか漠然と不愉快さを感じる。

 医師が反射的なためらいを克服・・・するためにはどうしたらいいのだろうか?・・・コミュニケーション学の教授を務めるリチャード・ストリートにこの質問を投げかけた。・・・彼は私がなかなか上達しないチェロの練習を続けていることを知りつつ、「音楽家になるためには?」と質問を返してきた。「音楽家になるためには技術的なスキルを身につけなければならないでしょう?音符や和音、音階。これが音楽の科学です。でも、音楽を演奏するとき、特に即興で演奏するとき、これは音楽の芸術なのです」

 ストリートが医師と患者間の相互作用を即興と表現したとき、この比喩が本当に心に響いた。・・・

 ・・・「一人ひとりが」とストリートは言う。「相手の動きに反応しています」。・・・そのときその場でその人のためにもっとも必要なものをとりだす・・・コミュニケーションの技術は・・・選べる範囲を広くし、究極的には有用さを増すための道具セットである。・・・

 

 

 

期待感の影響

患者の話は医師にどう聞こえるのか――診察室のすれちがいを科学する

 ネガティブな期待感=痛みが悪化するかもしれない、と思うだけで、もともと効いてた薬が効かなくなってしまうことってやっぱりあるんだなと、そういう研究結果もあるんだと知れてよかったです。

 

P92

 私自身がプラセボ的なものを臨床の中で活用している・・・よく使っているのは、漠然とした痛みや倦怠感を訴え、医学的検査では特定の原因が見つからない患者である。こうした患者の多くは心理・社会的なストレスをかかえていて、そのために状況が悪化している。マルチビタミン剤を飲めば元気が出るのかと尋ねる患者がよくいる。以前は、効果を証明する科学的研究がないこと・・・無意味と否定していた。しかし、今は別のアプローチをとるようになった。「マルチビタミン剤を飲んだら元気が出るという患者さんはたくさんいます」というようなことを言うのだ。嘘ではない。私の患者の多くが実際にそう言っているからだ、・・・

 ・・・安いマルチビタミン剤にはほとんど欠点がないことを考えると、私としては患者に試してみることを勧め、改善する可能性はまちがいなくあるという楽観的な見方を示すようにしたい。・・・

 ・・・

 コミュニケーションがプラセボ効果をもたらす二つ目のメカニズムは期待感を高める事である。私が患者に「患者さんの多くは、マルチビタミン剤を飲むと元気になると言っています」と伝えるとき、期待感を高めている。・・・

 痛み知覚に関する興味深い研究がある。二二人の健康なボランティアに対して痛みをともなう刺激(ふくらはぎの上に熱いカイロを置く)を与え、痛みを和らげる麻薬(モルヒネに似たもの)を静脈内投与した。同時に、被験者の頭部をfMRI(機能的MRI)装置に入れ、実験中に脳のどの部分が活性化されているかを記録した。

 被験者に対して四回の実験をおこなった。各回の実験は同一である―ふくらはぎの上に熱いカイロを置いたあとに鎮痛剤が静注される―そして被験者は感じている痛みをランクづけする。一回目は・・・有効成分を含まない食塩水を注射される。これによって痛みのベースライン・スコア(基礎値)が確立する。

 二回目では鎮痛薬がこっそり静注された。患者には一言もない。薬が効いたのは明らかで、痛みの点数が下がっていた。患者に薬の投与が始まったことを明かさなくても効いたのである。

 三回目では「これから麻酔科医が点滴を開始します」と予告された。予測通り、これから薬の注入が始まると伝えられたことで期待感が高まり、鎮痛効果が高まった。実際、このようなポジティブな期待感をもっているだけでも鎮痛効果が倍増する。

 四回目では実験者が「点滴は中止されるでしょう」と予告した。「リバウンド効果」(薬を中止後に悪化する痛み)があるかどうかを調べるためだ。しかし、実際には薬の投与はそれまでの回と同じように続けられた。しかし、今回は被験者はネガティブな期待感をもつことになる―鎮痛薬をもらえなくなるだけでなく、痛みが本当に悪化するかもしれない。実際にネガティブな期待感は、三回目でポジティブな期待感がもたらしていた効果を一掃した。それだけではない、ネガティブな期待感は薬のベースライン効果(二回目で得られた鎮痛効果)も打ち消してしまった。最後には、ネガティブな期待感という単純な行為が、強力な静脈内麻薬の生物学的効果全体をブロックしてしまった。

 これは魅力的な発見である―期待感は実際の薬と同じくらいの影響を与えることができるのである。・・・fMRIの結果は、生物学的な説明として魅惑的な仮説をもたらしてくれる。被験者にポジティブな期待感を与えつつ薬を投与すると、痛みの緩和に関与することが知られている脳領域の活動が増大した(ちなみに、これらの活動領域は、鎮痛作用が麻薬によるもの、プラセボによるもの、どちらであっても増加する)。対照的に、ネガティブな期待感を与えつつ鎮痛薬を投与すると、これらの領域の脳活動の低下が見られた。

 これらは実験的なデータではあるが、医師や看護師が治療をどのように提示するかが患者に生じる治療結果に対して大きな影響を与えるという発想を裏づける。