だれにでもできるからこそ・・・

患者の話は医師にどう聞こえるのか――診察室のすれちがいを科学する

 コミュニケーションによって、薬を使うのと同じくらい痛みがなくなることがある、という事実を、すんなり受け入れられないのにはこんな理由が・・・たしかに簡単すぎることってありがたみがないというか、そういう心理が働くものだよなと印象に残りました。

 

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 ・・・医師がとるべきステップを具体的に特定している質の高い研究のほぼすべてで、よりよいコミュニケーションが患者満足度の向上につながることを示している。医師が開かれた質問を増やすようにすることであったり、患者から懸念をひきだすことであったり、会話の話題を明確にすることであったり、病気以外の患者の生活について尋ねることであったり、治療計画を選ぶときに患者を参加させるようにすることであったり、単に共感を示すことであったり―こうしたスキルのどれであってもより注意深くおこなうことで、コミュニケーションは容易に改善される。さて、こうしたタイプの研究を医療関係者に紹介すると、いつも結構な割合でため息が聞こえたり、またかという顔をされる。・・・インチキ臭いコツや名人芸のたぐいの話と考えてそわそわしはじめる。・・・

 ・・・気持ちはわかる。このタイプの技術は「本当の」薬のようには感じられないし、ほとんどの医師の直感的な反応は、脇によけておけというものである。・・・科学的な根拠があっても、私たち医師はいまだにこのようなソフトな研究結果を受け入れがたいと思っている。

 医師がなぜそこまで警戒しているのかを分析してみて、私は二つの理由を思いついた。一つはコミュニケーションやかかわり、共感といった医療の無形要素は血糖値や脳卒中の数と比べて、測定が難しい点である。・・・さらに、コミュニケーションや共感のための処方箋を実際に書くことができないので、他の治療法のようなリアルさを感じられない。・・・

 しかし、二つ目の理由は私が思うにより深いものである。コミュニケーションや共感、かかわりは・・・いってみればだれにでも使えるものである。・・・

 そこに問題がある。・・・専門的な知識を必要としないなにかは、唯一無二の医学知識を得るための訓練に一〇年間を(さらに学生ローンで借りた一〇万ドルも)ついやしてきた医師からすれば、脅威に感じられる。私が言いたいのは、よいかかわりをするコミュニケーターになるためには大汗をかく必要がなく、しかも患者の痛みを半減できるのであれば、なぜやろうとしないのか?思うに、このようなシンプルさ、大汗をかく必要がないこと自体のために、サイエンスという枠の中に自分自身をはめ込んでいる私たち医師からみれば、こうしたスキルはあいまいで単純すぎるものに見えてしまうのだろう。何世紀も前からシャーマンが使用している技術が、一〇〇万ドルかけた大規模臨床試験の裏づけがある医薬品と同じくらい効果的であるという話には、なにか漠然と不愉快さを感じる。

 医師が反射的なためらいを克服・・・するためにはどうしたらいいのだろうか?・・・コミュニケーション学の教授を務めるリチャード・ストリートにこの質問を投げかけた。・・・彼は私がなかなか上達しないチェロの練習を続けていることを知りつつ、「音楽家になるためには?」と質問を返してきた。「音楽家になるためには技術的なスキルを身につけなければならないでしょう?音符や和音、音階。これが音楽の科学です。でも、音楽を演奏するとき、特に即興で演奏するとき、これは音楽の芸術なのです」

 ストリートが医師と患者間の相互作用を即興と表現したとき、この比喩が本当に心に響いた。・・・

 ・・・「一人ひとりが」とストリートは言う。「相手の動きに反応しています」。・・・そのときその場でその人のためにもっとも必要なものをとりだす・・・コミュニケーションの技術は・・・選べる範囲を広くし、究極的には有用さを増すための道具セットである。・・・