内田樹さんとえらいてんちょう(矢内東紀)さんの対談本、興味深く読みました。
こちらは、矢内さんのご両親が全共闘の生き残りだという話から続いたところです。
P35
矢内 個人主義の否定というのが一つの観念としてあって、マルクスは人間を個人ではなく、類的存在であると言います。全共闘もそうで、僕の家でもそうでした。・・・
僕の家においては、革命的か反革命的かということが測られていて、僕は革命的であろうとしたのですが、すると、現実には、個人主義の否定が行われるのです。個人主義の否定とは具体的に言うと、ある団体やある党では、一つであることが求められます。・・・結果、何が起きるかというと、他人のことを自分のように扱ってしまう。要するに他人も私と同じように思考して行動できるはずだと思ってしまう。それに基づいて行動して、失敗したことがあるんです。最近ようやく個人主義というか、個人という単位がある種の意味を持っているとわかってきました。
・・・
私は朝起きるのがかなり苦手なんです。今日はこの対談を楽しみにしていたから起きられましたが、普通ならまずムリです。夜遅くなら午前2時とか3時でも大丈夫なんですけど。でも社会一般においては、朝起きることを求められます。実家でも、学校や会社においてもそうです。僕は朝起きられないから、午前中の仕事をなるべくはずして、午後2時から仕事を始めようと決心したら、すごく楽になりました。でもその流れで、たとえば夜11時に仲間たちを招集していると、ほかの人たちにとっては大変に厳しいと気が付いた。要するに組織として。
それからは政治的な何かパッとしたことができるとしても、それを身体性に依拠しないやり方ではやってはいけないと思っています。個人の思考と身体が統合したところの個人の欲求をできるだけ聞いて、その最大公約数となる点でしか、共闘はできないだろうと。だから個人の適性をよく見るようにしようと思っています。たとえば僕の仲間の木村は、永久にクルマの運転ができるんです。
内田 永久にできるんだ(笑)。
矢内 本当に何時間でもできるんですよ。3日間ほとんど寝ずに運転して、僕が「ちょっと休んだほうがいい」と言ったら、「じゃあ休みますわ」と言って5分寝て、また運転する。私にはとてもできないのですが、ただし彼は電車に一切乗らないんです。
それくらい人間というのは多様です。左翼は、多様性を尊重するとか、保守派の小池百合子も言っていますけど、多様性の尊重というのは言葉では測れない、とても重い言葉です。