武器になる哲学

武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50

 ウスビ・サコさんの本に、お勧めの本が載っていて、その中にあったこの本を読んでみました。

 哲学や思想の話は、難しくてわからない印象が強かったですが、この本はわかりやすかったです。・・・自分の知識不足にも驚きましたが(苦笑)

 こちらは、宗教改革で有名なルターの思想を受け継ぎ洗練させた、ジャン・カルヴァンの思想体系を理解するための「予定説」についての解説・・・ジャン・カルヴァンという名前を初めて知りました(;^_^A

 

P64

 ・・・予定説とは、次のような考え方です。

 ある人が神の救済にあずかれるかどうかは、あらかじめ決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことは、まったく関係がない。

 ・・・

 ・・・カルヴァンは、ルター以上に「聖書」というテキストに向き合った人です。では「予定説」は聖書に書かれていることなのか。うーん、確かに聖書を読むと、カルヴァンの「予定説」として読める箇所があることがわかります。

 例えば新約聖書の「ローマの信徒への手紙」第8章30節には、「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、・・・栄光をお与えになったのです」と書かれている。・・・

 一点注意を促しておきたいのが、現在、予定説を認める教派は少数派であり、これをキリスト教の普遍的な教義だと考えるのは誤りだ、ということです。・・・

 さて、あらためて考えてみたいのは、これほどまでに、言ってみれば「御利益」のなさそうな教義が、進化論的に言えば「淘汰」されずに受け入れられ、やがて資本主義や民主主義の礎となっていったのはなぜなのか、という問題です。

 ・・・

 ・・・仏教と比較してみると予定説の異常さが際立ちます。仏教では因果律を重視します。・・・釈迦は全宇宙を支配する因果律を「ダルマ=法」と名付けました。・・・つまり教祖とは別に絶対的に法は存在したわけで、・・・

 予定説はこれをひっくり返します。神が全てを・・・「予め、定め」ているわけで、ここに因果律は適用されません。・・・

 さて「努力に関係なく、救済される人はあらかじめ決まっている」というルールの下では、人は頑張れないし無気力になってしまうように思うのですが、どうなのでしょうか。

 いや「まったく逆だ」と主張しているのがマックス・ヴェーバーです。・・・

 ・・・

 むしろ「全能の神に救われるようにあらかじめ定められた人間であれば、禁欲的に天命(ドイツ語で〝Beruf〟ですが、この単語には〝職業〟という意味もある)を務めて成功する人間だろう、と考え、『自分こそ救済されるべき選ばれた人間なんだ』という証しを得るために、禁欲的に職業に励もうとした」というのがヴェーバーの論理です。

 ・・・ヴェーバーのこの主張はちょっとした詭弁に聞こえるかもしれません。しかし、例えば学習心理学の世界ではすでに「予告された報酬」が動機付けを減退させることが明らかになっている、という事実を知れば、私たちの「動機」というのが、シンプルな「努力→報酬」という因果関係によっては駆動されていないらしいということが示唆されます。

 これはまた、現在の人事制度が、ほとんどの企業でうまく働いていない、むしろ茶番と言っていい状態になっていることについて考える、大きな契機をはらんでいると思います。・・・人事評価の結果を云々する以前に、昇進する人、出世する人は「あらかじめ決まっている」ように感じているはずです。・・・

 本節の締めくくりとして、哲学者の内田樹の次の指摘を紹介しておきます。

 

自分の努力に対して正確に相関する報酬を受け取れる。そういうわかりやすいシステムであれば、人間はよく働く。そう思っている人がすごく多い。雇用問題の本を読むとだいたいそう書いてある。でも僕は、それは違うと思う。労働と報酬が正確に数値的に相関したら、人間は働きませんよ。何の驚きも喜びもないですもん。 内田樹中沢新一『日本の文脈』

 

 

人生を生ききる

絆創膏日記

 読んで、心が鎮まるというか、地に足がつくというか、そんな感覚になりました。

 

P267

 積み重ねている日々を、昨日の繰り返しのように感じる人は多いのではないだろうか。

 小さな出来事に一喜一憂したり、たまに起きる大きな変化に慌てふためいたりしながら、僕の毎日は過ぎていく。時々は昔のことを振り返り、古い心の傷をながめ、涙を浮かべることもある。うれしくても、悲しくても、些細なことで心が揺れ動いてしまうからだ。

 気持ちを言葉にすることで、悲しみから救われた経験をしたことはないだろうか。

 言葉が自分に与える影響は、少なくないと思う。

 心を癒す。それは、辛い気持ちにふたをすることではなく、傷を負った部分をもう一度見つめ、自分自身を慰めることに違いない。

 ・・・

 人は誰でも、こうであったらいいのにという理想を思い描きながら、自分の人生を生きているのではないだろうか。

 夢を実現するために、何が必要なのかを繰り返し自分に問い続ける。

 行動面にばかり気持ちは向くが、本当に大事なのは、物事の捉え方ではないかと考えることがある。悲しみや苦しみは、今起きている出来事を、自分の心の中で、どのように消化していくかで、幸せにも不幸にもつながるような気がするのだ。

 僕が自閉症であるから気づくこと、感じることは、普通の人の感覚とは、異なっているのだろう。この先も普通の人の感性を、僕が体感として知ることはないように思う。でも、これは逆に言えば、普通の人が自閉症の物の見方や感じ方を知らずに一生を終えることと、同じなのだ。どんな人も、他の人になることはできない。自分という人間に生まれてきたことに感謝し、精一杯人生を生ききることが使命なのだと思う。

逆らわない

絆創膏日記

  大事なことだなと思いながら読みました。

 

P131

 風が吹いても逆らわない

 

 木が風に揺れる時、僕の心も揺れ動く。

 わくわくする気分とは少し違う。見ているものに同化するような感覚なのだ。

 風にあおられ木の枝が右に左に上に下に動く様子は、まるで動物のように見える。

 風が吹くたび、ぐにょぐにょ、ぐにぐに、枝がしなる。こんなにも枝は柔らかかったのかと、僕は驚きを隠せない。目を大きく見開き、木を凝視する。

 植物は、人みたいに移動することが出来ない。風や動物によって運ばれた場所で生きるしかないのである。

 運命を天にゆだね、その日、その日を丁寧に生きる。

 地面に根を張り、虫や鳥を誘い、人の目を楽しませてくれる植物。陽の光と雨の恵みに支えられ、決められた場所で精一杯生きる姿は、りりしくたくましい。

 風が吹いても逆らわない。

 流れに身を任せることこそが、一番いい選択だと知っているかのように、枝は揺れ続ける。

 隣同士の枝でも、別々の動きをする。

 同じ風でも、どのような動きをするかは、それぞれの枝が決めることだからだ。

 折れなければいいのである。

 ばらばらに動くことが、命を永らえる行為に繋がっているのだと思う。

絆創膏日記

絆創膏日記

 東田直樹さんのエッセイを読みました。

 この方の文章を読むと、いろんな連想が浮かびます。

 

P22

 人を励ますということ

 

 今日、見かけた中学生くらいの子どもたちのグループは、にぎやかだった。ふざけ合ったり、じゃれ合ったり、みんな大きな声で笑っていた。

 僕は自閉症という障害を抱えていて、普通の人のようには会話が出来ないので、そういった場面に遭遇すると、少し羨ましくなる。僕もやってみたいと素直に思う。でも、それは永久に叶うことのない夢だということを、僕自身が一番よく知っている。こう書くと「そんなことはない」と励ましてくれる人もいるかもしれない。その言葉は優しさだろう。

 励まされたら、励まされた人は、たいてい「ありがとう」と応える。僕は、この「ありがとう」には、主にふたつの意味が込められているのではないかと思っている。相手には理解されないと感じ、どうにか早く話を切り上げるためにお礼を言う、これでおしまいの「ありがとう」。もう一つは、相手の気遣いに感謝の気持ちを伝える、思いやりに対する「ありがとう」である。どちらにしても励まされた人の本心としては、励ましてくれた人の言う通りだとは思っていないだろう。と言うより、励まされたからといって、すぐには考えを変えられないのが人間だ。でも、励ます方は、これで全てが解決したかのようにほっとする。自分はいいことをしたと胸をなでおろす。

 励ます、励まされるの両方を経験していても、このやりとりのパターンが変わることはあまりない。人間とは自分本位である。つくづく相手の立場に立てないものだと思う。

健康のために

まとまらない人 坂口恭平が語る坂口恭平

 手首から先の運動は脳にいいそうです。神田橋先生の本、久しぶりにまた読もうと思いました。

 

P148

 こいつの本読めないって言われ続けたい。書いてあることはわかるけど、意味がまったくわからない、ってのが一番やばいんじゃないか。日本語なのに英語としか思えないとか。それがプルーストが言ったことだからね。「美しい書物は一種の外国語で書かれている」(「サント=ブーヴに反論する」)と。でもポップカルチャーは入れていく。トマス・ピンチョンのイメージ。僕は、ピンチョンのような本を書きたい。全然本が読めないのに、よく言うよね。でもそう感じてるのも確か。なんだこれ、全部意味わかるけど、全体通して意味わかんないっていう本。一応、自分としては、見えるままに書いているつもりなんだけどね。読んだら、読者の目には浮かんでるはず。自分でも意味はわからない。書いて意味を作ろうともしてないし、そこで言いたいことも何もない。自分のメッセージみたいなものは元から少ないんだろうけど、今は完全になくなってるのかも。ただ書きたい、っていうのはあるみたい。苦しいから、書くしかないってことでもあるんだけど。書いている間は、別の現実の中にいて息ができてるみたいだから。

 

P263

 僕がすすめている、書く、料理する、編みものするとかいう「手首から先の運動」は、もともと神田橋條治っていう精神科医が推奨してたことのパクリなの。

 

 人間の脳は直立して手首から先を使うようになってから発達したので、手首から先を複雑に使うような仕事は健康にいいし脳を発達させるんです。で、どんな作業があるかね、っていうと、ほとんど家事なんです。 神田橋條治ほか『発達障害は治りますか?』(花風社)

 

 もとは芸術運動とかじゃなくて、健康のためのもの。神田橋さんは、みんなの健康のために、薬を飲まないで、とにかくなんでも、健康のためにいいことを考えてる。異端扱いされているけど、ただの賢い人だと思う。・・・精神病自体が謎で、なんだかわかんないんだから、なんでもやってみようとするほうがいいじゃん。

素直なトンネルになる

まとまらない人 坂口恭平が語る坂口恭平

 これって究極なのでは?と思いつつ読んだところです。

 

P103

 本を横に置いて小説を書いてる。『けものになること』(2017、河出書房新社)なら、ドゥルーズの『千のプラトー』(河出書房新社)の第10章だけを見ながら書いていた。1行読むと、30行小説が浮かぶ。3行が原稿用紙20枚になることもある。本を駆動させる感覚。薄ぼんやりと本を見ながら、書く。本に書かれている感覚だけを、全部写している感じ。ドゥルーズも、おそらくそんなふうにして、アンリ・ベルクソンアルトーを読みながら書いてたはず。・・・本来は、スライダーを読む、空気を読む、先を読むとか、そっちこそ読書なんだと思う。つまり、僕は理解するために本を読んでいるんじゃない。だから書評とかは書けない。自分の頭の中や体で感じたことでありながら、しかも自分ではないものの声の集合、それが立体的に立ち上がり、生きたまま動いている……本は比喩的にそれを表している。

 ・・・

 今僕はドゥルーズが憧れたアルトーになっている。『シネマ2*時間イメージ』(法政大学出版局)っていうドゥルーズの本を読んでいると、アルトーについて数ページ書いてあった。アルトーこそがドゥルーズの本丸だったんだけど、意味があんまわかってなかった。今アルトーである僕なら、その数ページで、原稿を何百枚も書くことができる。僕はそういう衝撃とかインスピレーションだけが必要で、あとはかわら版作者としては訓練してるから、読書はちょっとでいい。僕にはインプットがまったく必要ない。なんにもいらない。インプットしてアウトプットするような芸術家じゃないんだと思う。ただ体の奥底に何かがある。僕も見たこともない世界が。そこは湧き水みたいにずっと何千年も何万年もイメージが湧き続けてる。僕はそれをこちらの世界に出すトンネルになるだけ。だから鬱にはなるし、死にたくなるし、体は動けなくなるのに、これまで一度も書けなくなったことはない。どんなにへばってても、普通に日常生活送るのはまったくダメでも、布団にくるまってても言葉だけは延々と出てくる。鬱のときは逆に1日に50枚ぐらい書いてしまう。・・・悲観的になるだけだから、内面と向き合うのも辛くてそれもできない。外にも内にも向かわないで、ただのトンネルになるしかないから、ただ書く機械みたいになっていく。絵も同じ。僕の絵も下手だけど、もう技術とかそういうことは置いておいて、とにかくイメージだけは出てくる。何を描こうと考えたことがない。歌も同じ。ただ出てくるだけ。だから変にインプットするほうがぎこちなくなる。僕はただ自分の中に湧いているものを、ただ外に出すだけで人生を終わらせるんだと思う。・・・売れても売れなくても関係ない。食えても食えなくても関係ない。金があってもなくても関係ない。ただ出すだけ。そこにあるんだから。・・・それに気づいたのは本当ここ3年くらいだけど。それまではなんで本が読めないんだ、人の絵を見れないんだ、音楽が聴けないんだって悩んでいた。そういうとこは素朴に悩む。他の人と全然違うから心配していた。・・・どんなに絶望して家に引きこもって落ち込んで自信がなくなっても、つくり続けている。不思議だけどね。だからこうしたいとか夢もない。ただどうやったら、もっと素直なトンネルになれるか、自分が消えるのかってことは考えてるけどね。

まとまらない人

まとまらない人 坂口恭平が語る坂口恭平

 躁鬱の波に流されながら・・・なのか、波乗りしながら・・・なのか、なんとか息がしやすいように、少しでも健やかでいられるように、いろんな工夫をしながら生活している坂口恭平さんの本。

 この「まとまらない人」は「おそらくけっこうな躁状態だった」ときに、編集者の方に話しまくったことを収めたものだそうで(確かにすごくパワフルですが、一方で話に深みも感じます)、興味深く読みました。

 

P154

 前は、頭の中でどんどん分裂して好き勝手にやろうとしてるのを縛ろうとしてた。分裂すること自体が怖かったんだと思う。分裂しないようにしないようにって慎重にやってた。今は、もっと分裂してもいいと思ってる。昔は、立て付けの悪い家じゃ隙間風も入ってくるし、寒いし、暑いし、嫌だからって、密閉された空間を作ろうとしてた。でも、それだとすぐに息苦しくなるんだろうね。今は隙間風が入ってきても気にしない。これっていうテーマなんかなくていい。ないほうが自然で、体から出てくるままに形にしていくほうがいいと思ってる、形にすること自体をしなくて考えてるだけでもいいんじゃないかとも思ってる。分裂して、一貫性もないし、飽きたらすぐやめて、次のことはじめて、前のことなんかすっかり忘れてる。それでもいいんじゃないかって思ってる。そっちのほうが面白いと思ってる。何よりもそっちのほうが自分にとっては健やかでね。

 僕は「新政府」で売れた。そのときのことを研究して、同じことを続ければいいのに、あえて、きちんと、ノイズをいれていく。でも、単純に僕はなんでもやってないと体に悪いから、体がそういうことを求めてくるんだろうね。だから、何者にもなり得ない。どこかで落ち着いて、こういう人ってことで進んでいってくれない。

 本当に僕、胡散臭いな。狙ってるところもあるけど、結局ナチュラルボーン胡散臭い人なんじゃないかな。だからいろんな人に嫌われてるのかもしれない。あまりそう感じたことはないけどね。いろいろ変なこともやってるのに、胡散臭いのに、炎上はしないしね。・・・文句があれば僕に直接電話かけてこれちゃうわけだから。しかも、電話番号公開して8年以上経つけど、一度もそういう電話はかかってきてない。この世の中は、ちゃんと晒せばプライバシーもちゃんと守られるってことなのかもしれない。まあ、僕に文句を言っても、なんの足しにもならないから。まったく役に立たないやつでいるってのは大事かも。なんか知らんけど、ニコニコしてときどき死にそうになってそれでも明るく生きている。攻撃しても無駄って思われてるのかな。無視しておいたほうがいいってことなのかも。おかげで結構気楽に生きられてるよ。それでも自分で鬱になって追い込むし。本当にわけがわからない。