素直なトンネルになる

まとまらない人 坂口恭平が語る坂口恭平

 これって究極なのでは?と思いつつ読んだところです。

 

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 本を横に置いて小説を書いてる。『けものになること』(2017、河出書房新社)なら、ドゥルーズの『千のプラトー』(河出書房新社)の第10章だけを見ながら書いていた。1行読むと、30行小説が浮かぶ。3行が原稿用紙20枚になることもある。本を駆動させる感覚。薄ぼんやりと本を見ながら、書く。本に書かれている感覚だけを、全部写している感じ。ドゥルーズも、おそらくそんなふうにして、アンリ・ベルクソンアルトーを読みながら書いてたはず。・・・本来は、スライダーを読む、空気を読む、先を読むとか、そっちこそ読書なんだと思う。つまり、僕は理解するために本を読んでいるんじゃない。だから書評とかは書けない。自分の頭の中や体で感じたことでありながら、しかも自分ではないものの声の集合、それが立体的に立ち上がり、生きたまま動いている……本は比喩的にそれを表している。

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 今僕はドゥルーズが憧れたアルトーになっている。『シネマ2*時間イメージ』(法政大学出版局)っていうドゥルーズの本を読んでいると、アルトーについて数ページ書いてあった。アルトーこそがドゥルーズの本丸だったんだけど、意味があんまわかってなかった。今アルトーである僕なら、その数ページで、原稿を何百枚も書くことができる。僕はそういう衝撃とかインスピレーションだけが必要で、あとはかわら版作者としては訓練してるから、読書はちょっとでいい。僕にはインプットがまったく必要ない。なんにもいらない。インプットしてアウトプットするような芸術家じゃないんだと思う。ただ体の奥底に何かがある。僕も見たこともない世界が。そこは湧き水みたいにずっと何千年も何万年もイメージが湧き続けてる。僕はそれをこちらの世界に出すトンネルになるだけ。だから鬱にはなるし、死にたくなるし、体は動けなくなるのに、これまで一度も書けなくなったことはない。どんなにへばってても、普通に日常生活送るのはまったくダメでも、布団にくるまってても言葉だけは延々と出てくる。鬱のときは逆に1日に50枚ぐらい書いてしまう。・・・悲観的になるだけだから、内面と向き合うのも辛くてそれもできない。外にも内にも向かわないで、ただのトンネルになるしかないから、ただ書く機械みたいになっていく。絵も同じ。僕の絵も下手だけど、もう技術とかそういうことは置いておいて、とにかくイメージだけは出てくる。何を描こうと考えたことがない。歌も同じ。ただ出てくるだけ。だから変にインプットするほうがぎこちなくなる。僕はただ自分の中に湧いているものを、ただ外に出すだけで人生を終わらせるんだと思う。・・・売れても売れなくても関係ない。食えても食えなくても関係ない。金があってもなくても関係ない。ただ出すだけ。そこにあるんだから。・・・それに気づいたのは本当ここ3年くらいだけど。それまではなんで本が読めないんだ、人の絵を見れないんだ、音楽が聴けないんだって悩んでいた。そういうとこは素朴に悩む。他の人と全然違うから心配していた。・・・どんなに絶望して家に引きこもって落ち込んで自信がなくなっても、つくり続けている。不思議だけどね。だからこうしたいとか夢もない。ただどうやったら、もっと素直なトンネルになれるか、自分が消えるのかってことは考えてるけどね。