ダライ・ラマ法王の解説する「空の智慧」、心にとめておけるようになりたい・・・と思いました。
P32
仏教の経典には、「無我」の見解が説かれています。しかし、「自我」はない、と言われると、行為をなす者もなく、その結果を体験する者もいないのだ、と考えてしまうかもしれませんが、それは誤解です。
では、仏教で説かれている「無我」の見解とは、いったいどういう意味なのでしょうか?
仏教以外のほとんどの宗教では、私たちの心とからだの構成要素である五蘊を支配している支配者のような「自我」が存在していて、その「自我」は五蘊との関わりを持たず、それ自体の力で独立して存在している、と主張しています。
しかし仏教では、そのような独立自存の「自我」は存在しない、という意味で「無我」を説いているのです。・・・
つまり、仏教の経典には、「自我」は五蘊に依存して存在しているものであり、五蘊に依存せず、五蘊と無関係に独立して存在しているものではない、と述べられているのです。
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そして、主体者である「自我」が体験する幸せや苦しみ、環境世界も含めて外界に存在するものはみな、その因と条件に依存して成立しています。
ですから、仏教の哲学的な見解は何かと言うと、それは「縁起」であり、すべての現象は他のものに依存して生じている、という考えかたをしているのです。この「縁起」という考えかたは、他の宗教には見られない、仏教だけのユニークな見解です。
このことに関連して、仏教とはどういうものなのか簡潔に述べると、仏教には「見解」と「実践」という二つの柱があって、仏教の哲学的な見解は「縁起」であり、この考えかたに基づいて、慈悲の心を源とする「非暴力」の行ないを実践するのが仏教である、と私はいつもこのように説明しています。
P65
さらに、空とは「中観の見解」のことであり、「中観」とは、二つの極端論を離れた真ん中という意味です。
二つの極端論の一つは、実在論であり、すべての対象物は実体を持って成立している真実の存在なので、永遠に変わることなく存在し続けている、という極端な考えのことを意味しています。そしてもう一つの極端論は、何も存在していない、と考える虚無論であり、この二つの極端な考えかたから離れて、どちらにも偏らない真ん中の道をいくのが「中観の見解」なのです。
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そして「現われ」とは、縁起によって生じた幻のような現われが存在することを、正しい認識によって述べている言葉です。つまり、すべての現象は他に依存して生じたものである、という「縁起」の考えかたに基づいて、すべての現象はそれ自体の独立した実体を持たず、幻のように実体のないものとして現われているということが述べられています。
しかし、幻のように実体のないものであっても、そのような世俗のレベルの現われは確かに存在しているということを説くことで、「ない」という極端も滅しているのです。すべての現象は、空の本質を持つものなので、まったく何も存在しないのだと考えてしまうと、虚無論に陥ってしまいます。そこで、虚無論という極端も滅して、自性による成立がなく、単なる名前のみによって、幻のように現われているだけの存在としてすべての現象をとらえるとき、それは、二つの極端論を滅した真ん中の道である「中観の見解」となるのです。
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・・・空を理解しなければならない理由とその目的について、ナーガールジュナは次のように説明されています。
私たちが対象物を見るとき、その対象物は永遠で実体のある存在だというとらわれが生じてきますが、そのような対象物の実体に対するとらわれを、私たちは完全になくさなければなりません。何故ならば、実体をつかむ心によって、自分に対する執着と他の人たちを嫌悪する心などが生じ、自分と他人を分け隔てするさまざまな感情(煩悩)が起きてきてしまうからです。
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そこで、空を理解する目的は何かと言うと、そのような実体をつかむ心をなくすことにあるのです。実体をつかむ心が起きないようにするためには、自分の心が見ている対象物には固有の実体がないのだ、ということを理解し、そのような実体に心がとらわれないようにしなければなりません。
P75
次に、ナーガールジュナは空の意味について説明されています。釈尊が、「すべての現象はそれ自体の側からの成立がない空の本質を持つものである」と説かれたその意味が述べられているのです。
空とは、「縁起」を意味しています。そして「縁起」とは、「すべての現象は他のものに依存して名前を与えられたことによって生じ、存在している」という意味なのです。「縁起」を理解する目的の一つは、ものごとを全体的にとらえることができるようになるためです。
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・・・自分に害を与えてくる敵も、たくさんの条件に依存して、たまたま敵となって自分を困らせているだけなのです。ですから、敵も味方も、条件に依存して一時的に敵や味方になっているだけなのであり、もともと敵や味方として存在していたのではありません。
つまり、究極的には、敵も味方も、そのときの状況によって一時的に敵、あるいは味方という名前を与えられただけの概念上の存在であるということが理解できれば、そしてそれを自然に心に思い浮かべることができれば、偏見を持つことなく、ものごとを全体的にとらえることができるようになるのです。
P94
「私」という強い自我意識があるときは、実体を持つ固有の存在であるかのように「私」は現われてきて、そのような「私」に対するとらわれを土台として、執着と怒りが生じてきます。そのようなときは、実体を持つ固有の存在として「私」をとらえているのです。しかし、執着や怒りがなく、心がニュートラルな状態にあるときの「私」は、実体があるのでもなく、ないのでもなく、「私は行きます」「私はここにいます」などと言うときのように、「単なる私」として心に現われています。
そして、空について何度も考えて瞑想し、空の理解がある程度進んでくると、実体のない「私」、つまり、「私」という単なる名前のみによって存在し、現れているだけの、幻のような「私」が心に現れてきます。このようなとき、「私」は実体のない存在として心に現れているのです。
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・・・「私はない」というのは、「私」はまったく存在していないという意味ではありません。ふだん私たちの心に現れてくるような、それ自体の側から存在している固有の実体を持つ「私」がない、という思いが心に浮かんでくるのです。
P144
たとえば、中国の収容所で非常に多くの困難や苦しみを体験してきたチベット人たちの中には、そのようなつらい体験を、心の修行をするための最高の機会であり、そのような機会を得てよかった、と語ることのできる人々がいるのです。
私の友人に、中国の収容所で約十八年も過ごしてきた僧侶がいます。彼は一九八〇年代の前半に許可が下りてインドに亡命してきたので、あるとき私は彼と会って話をしたことがあります。そのとき彼は私に、「収容所で過ごした約十八年の間に、危機を感じたことがありました」と言いました。私は、命の危険を感じたのかと思いつつ、どういう危機が訪れたのかを尋ねると、彼は、「中国人に対する慈悲の心を失いそうな危機を感じたのです」と答えたのです。彼は、それほどまでに素晴らしい修行者でした。彼に対して拷問をする中国人に対してさえ、慈悲の心を失わずにいたい、という気持を何よりも大切にしていれば、深い心の奥で、自分の感情をコントロールすることによって、心の平和を維持することができるわけです。たとえ感覚的に、このうえなくつらい、苦しい体験をしていても、です。
・・・そのような体験談を聞くと、たとえどんなにつらい出来事に直面しても、決して平穏な心を失わないでいられるようになりたい、と思って努力しているのです。