無常だからこそ成り立つ

希望のしくみ (宝島SUGOI文庫)

なるほど。

P162
スマナサーラ ブッダはこう言うんです。
 無知な人は「自分のからだ」に対して、これが私、これが私の我(これが私だと指さすことのできる実体)、だと思う。「感覚(感じるもの)」に対して、これが私、これが私の我、だと思う。「想い」に対して、これが私、これが私の我、だと思う。「行(行為を引き起こす衝動)」に対して、これが私、これが私の我、だと思う。自分の「意識(心)」に対して、これが私、これが私の我、だと思う。
 つまりブッダは、「私がいる」という実感が起こる処を、五つ発見しているんです。デカルトが言うように、「考える機能」だけではないんですね。
「私がいる」と感じることは、誰にでもあります。問題は、その実感がまったく変わらないと、あべこべに思い込むことなんです。
 だからデカルトが「われ思う、ゆえにわれあり。思うことはつねに変わる、ゆえにわれはつねに変わる」と言えば、仏教は反論しないですんだと思いますよ。
 皆さんのように「我がないと私はいない」と思うことは、錯覚もいいところです。変わるからこそ、無常だからこそ、私という存在が成り立っているんです。赤ちゃんのときから死ぬまで、からだが変わっていく。思考、概念、知識などが変わっていく。好き嫌いが変わっていく。楽しみ苦しみが変わっていく。それが「生きている」ということです。強いて言えば、無常でなければ、私もあなたも存在することすらありません。・・・