他の本でも、般若心経の解説や訳を読みましたが、こちらの訳はとてもわかりやすかったです。
P86
・・・マントラとは、もともとは、ヴェーダの祭りのときに唱える文言のことです。ヴェーダというのは、紀元前一五〇〇年~同五〇〇年ごろに書かれたインド最古の文献で、バラモン教の根本聖典です。全部で、リグ、サーマ、ヤジュル、アタルヴァの四つがあり、自然讃美を詩の形で記したものです。中でも、『リグ・ヴェーダ讃歌』の第十章、一二九歌の〝宇宙開闢の歌〟は圧巻です。
そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、その上の天もなかりき。何物か発動せし、いずこに、誰の庇護のもとに。深く測るべからざる水は存在せりや。……そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼とのしるし(太陽、月、星など)もなかりき。かの唯一物(タート・エーカム)は、自力により、風なく呼吸せり(生存の兆候)。これよりほかに何ものも存在せざりき。
P92
二百六十二文字の祈り
全知者である高貴なお方に対して、礼拝いたします。
観音さまが、深遠な智慧について洞察された結果、存在するものには五つの要素があることに気づかれました。
しかし、それらのすべてには、実体がないことを見抜かれました。そのことによって、一切の苦しみから脱却されたのでした。
シャーリプトラよ、よくお聞きなさい。
私たちは、物質的な体をもっていて、そのことを離れては、存在できませんが、よく。考えると、その本性は「空」なのです。変わらぬ物質的実体などはないということです。
「空」とは「何もない」ということではなく、何もないからこそ、すべてを生み出すことができる根源なのです。つまり、そこからたくさんの現実が生み出されるのですから、物質的なものだともいえます。
言い換えれば、物質的側面は、「空」の表れ方だということです。
私たちの感覚や心の作用も、まったく同じです。
シャーリプトラよ、よくお聞きなさい。
すべてのものは「空」なのですから、いろいろなものが生まれたり、消えたりしているように見えても、その根源は、何も変わってはいません。ですから、汚くなることも、清らかになることもありません。増えたり、減ったりも見かけだけのことで、根源的には変わるものではありません。
その奥には、偉大な真理として真実があるだけです。
ですから、シャーリプトラよ。実態がない、ということなのですから、感覚器官による感覚から、心の作用に至るまで、絶対的なものは何もないのです。覚りもなければ、迷いもなく、老いも死もなく、それらがないということは、それらがなくなるということもないということです。絶対的な苦しみも、その原因もありません。絶対的な知識やものの獲得もありません。すべてが「空」なのですから。
そのような意味からすれば、心を覆うものがないということなのですから、怖れもなく、転倒した心からも遠く離れ、心静かな平安の中に入ることができるのです。
過去、現在、未来にいらっしゃる目覚めた人たちは、すべて、そのような智慧に到達されて、正しい覚りを得られています。
そこで、人は知るべきなのです。智慧の完成に至る真言、大いなる真言、無上の真言、無比の真言、それは、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないからこそ、真実であることを。その真言とは、つぎのようなものです。
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
(行ける者よ、行ける者よ、彼岸に行った者よ、完璧に彼岸に渡った者よ、覚りよ、幸いあれ)
これで智慧の完成は終わりました。
以上を、さらに要約すると、
「私たちは、感覚器官で外界を認識し、それを心で現実の感覚として組み立てているのですが、それらのすべては、〝空〟から生じた幻影のようなものです。そのことに気づけば、すべての苦から解放されます。そのためには、ただ、真言を唱えればいいのです。そうすれば、『空』の究極の境地に入れるでしょう。その真言とは〝ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー〟です」
・・・
般若心経の構成は、とてもドラマティックです。全知者への礼拝からはじまり、覚った観自在菩薩の紹介、その内容は、すべてが「空」であることを見抜いたことの紹介に終始し、最後に、真言を教えてあげよう、という形で書かれています。真言の前までは、すべてが、序奏です。