マグロの話、へぇ~が多くて面白かったです。
こちらはすしざんまいの木村さんのエピソード、印象に残りました。
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一億五千五百四十万円のマグロが世間を騒がせた直後、私は週刊誌『AERA』の人物ノンフィクション「現代の肖像」の取材で木村に密着することになる。当時、木村に対する評価は真っ二つに分かれていた。
木村氏のある意味での「侠気」と「決断」に拍手喝采を送る人もいれば、「やり過ぎだ」「節操がない」などの批判もあった。
木村氏は当初から一貫して「広告宣伝が目的ではない」と宣言していたが、結果的にすしざんまいは大行列の人気店となり、今では日本の正月の「顔」ともいうべき存在だ。私は、木村があの一億五千五百四十万円のマグロの鮨を、その元を取ろうと法外な値段で客に出したのであれば、それはさすがにやり過ぎだと批判しただろう。けれども、木村は値段据え置きで客に振る舞った。仮にそれが広告費だったとしても、「億」単位の金を持ち出してまでも、初競り一番のマグロを手に入れたかった。そんな〝馬鹿げたこと〟をする人物は木村以外には存在しないのだ。
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六月のある夜、色とりどりの民族衣装をまとったアフリカの女性に囲まれ、人気寿司チェーン店「すしざんまい」を経営する喜代村社長・木村清(六十一歳)は上機嫌だった。彼女たちはアフリカ開発会議(TICAD)のために来日したアフリカ各国の首脳夫人らで、今まで鮨はおろか生魚さえ食べたことがない。木村の勧めに応じて恐る恐る「本マグロの握り」に口をつけた彼女たちだったが、しばらくして満面の笑みでカメラに向かってVサインを決めた。
(中略)
木村がなぜ政府主催の国際会議に関係しているのか―。同じ日、本会議が開催されているホテルの一室で木村と談笑していたのは、アフリカ各国の水産大臣や事務次官などの政府要人数十人。中には東アフリカの小国・ジブチ共和国の大統領など国家元首の姿もあった。この会合は、非公式ながら、多忙な会議の合間を縫って木村に会いたいと、アフリカ首脳側が日本政府に要望して実現したものだ。・・・
木村は近年そのジブチに通っている。マグロをはじめ、水揚げした魚の加工、冷凍、流通など、木村自身が日本の水産業界で培ってきた技術と知識を惜しみなく提供し、地元の雇用創出に尽力してきた。
「向こうは魚を獲ると全部塩漬けにしちゃう。それもいいけれども、例えば魚肉ソーセージにすれば輸出もできるし、何より地元の人々の仕事になる。アフリカにはムスリム(イスラム教徒)も多いから、魚肉だったら間違いないでしょう」
アフリカの政府関係者の一人は、木村の時代を見据えた先駆性を高く評価する。
「世界がアフリカに見向きもしない時代から、『ツナキング』は民間外交を重ねてきた。ODAを行うJICA(国際協力機構)など、日本政府は、彼が開けたドアを使って、彼の後から遅れてやってくる」
木村が世界のマグロに目をつけたのは三十年前。当時、喜代村の前身となる「木村商店」を立ち上げ、寿司ネタの販売や鮮魚の卸売りをしていた木村は、国産に負けないマグロを求めてスペイン南部の港町・カルタヘナに乗り込んだ。
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ところが、日本の青森県・津軽海峡で行われている勇壮な「一本釣り」に比べて、一回で数百匹のマグロを根絶やしにする巻き網漁は、操業の過程で魚体に膨大なストレスと外傷を与える。その多くが「ヤケ」や「身割れ」を起こし、商品としての価値は落ちる。また出荷サイズに満たない幼魚は全て廃棄処分されていた。この現場を目撃した木村は、近い将来、クロマグロは絶滅するのではと危機感を抱く。事実、世界四十九カ国・地域が加盟するICCAT(大西洋まぐろ類保存国際委員会)が、地中海におけるクロマグロの漁獲制限に踏み切ったのは、それからすぐのことだった。
マグロ資源を守り、持続可能な漁業を確立できないだろうか―。
木村は突拍子もないアイディアを発案する。巻き網で漁獲されたマグロを買い取り、海上に作った生簀で生かし、需要に応じて生産調整をしながら日本に輸出をしようというのだ。・・・木村はこれを「備蓄マグロ」と命名した。
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木村は生簀に飛び込んで、水中を泳ぐマグロを観察して生態を研究し、この画期的な取り組みを成功させる。木村の「備蓄」という考え方は今、世界各地で「畜養」と名前を変えて普及しつつある。
木村がマグロ行脚で訪れた国は六十五カ国。・・・今では世界十カ所の海に専用の「備蓄マグロ」の生簀を常備している。・・・
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木村と親交が深いジブチ共和国大使のアホメド・アライタ・アリはこう話す。
「彼はアウェー(海外)であっても動揺しない。目的を達成するために必要なリソースは何かを常に考え、最短距離でそれを手に入れようと行動する。怖いもの知らずだよ。そんなことができるのは彼が元アーミー(自衛隊)だからさ」
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元自衛隊の航空パイロットで木村と同期入隊の古谷隆二(六十一歳)は、常に世界を視野に入れた木村の考え方は、自衛隊で最初に叩きこまれる「国外を意識する」習慣の延長なのだと言う。木村のカリスマ性は当時から突出していて、何か行事がある度に周囲からリーダーに抜擢された。立ち居振る舞いは常に豪快で明るく、弱い自分を他人に見せたことは一度もない。自衛隊員は個人の資質によって「指揮官型(現場)」と「幕僚型(後方支援)」に分かれるが、木村は絶対的に「指揮官」タイプ。しかも、より困難な状況下で燃える「有事適応型」だった。
「超人的な体力でした。訓練ではわずかな水しか配給されないのですが、自分は飲まずに周囲の仲間に分け与える。当時から『利他』に尽くす人。自衛隊にいても必ず成功していたと思います」
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二年前、福島第一原発事故で、大量の放射能汚染水が海に流出した時、後手に回る日本政府の対応に、木村は現地に二十万トンの大型タンカーを派遣するという独自のアイデアを持って、永田町のある自民党大物議員の事務所に押し掛けた。応対に出た議員の秘書をその場で口説いて、多忙なその大物議員との面会を実現させた。
「自衛隊と海洋船舶。両方の知識に明るい木村さんの話にはリアリティがあった。結局、そのアイデアは採用されませんでしたが、その秘書はすっかり木村ワールドに感化され、今では寿司といえば『すしざんまい』と決めているそうです」
木村と永田町に乗り込んだ中央魚類株式会社会長・伊藤裕康は、当時を振り返って笑う。一方、ビジネスの現場では「勇猛果敢」とは全く正反対の顔を併せ持つと証言するのは前出の古谷だ。
「ビジネスに関しては『支離滅裂』どころか『精巧緻密』。とにかくロジスティクスに長け、人一倍、自分にも数字にも厳しい」
確かに築地市場を見下ろす喜代村の社長室は全てガラス張り。社内の二万円以上の支出は全て自分で決済するし、店頭で配るチラシの一言一句に至るまでチェックを欠かさない。
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早くから木村の商才に注目してきた人物がいる。作家の江上剛(五十九歳)である。江上は当時、みずほ銀行築地支店の支店長だった。
二〇〇〇年代初頭。築地はどん底の不景気に喘いでいた。・・・
・・・すしざんまい本店の土地オーナーが、築地関係者と共に木村に出店の話を持ちかけたのも、「築地に人を集めて欲しい。木村さんならできる」と期待してのことだった。
当時、築地支店として二千五百億円の貸付金と多額の不良債権を抱え、金利の回収が見込める新規の取引先を捜していた江上は、木村に面談を申し出る。帳簿を確認すると、木村はすしざんまい以外にも弁当屋やコンビニなどを多角経営していて、利益は正直トントンだった。江上が注目したのはやはり「二十四時間営業、三百六十五日無休、明朗会計」。これに特化させ、いつでもうまくて、安価な鮨を提供できるならば、融資させて欲しいと切り出した。木村は江上の提案を聞き入れ、事業を整理し、すしざんまいを拡大する方向に舵を切る。江上は言う。
「優秀な経営者はドラッカーの言う『予期せぬ成功』を呼び込む資質を持っている。深夜に新鮮なネタはないという固定概念を覆し、気が付けば銀座のクラブのママ、電通やテレビ局のスタッフなど深夜族がやってきた。これからも上場は目指さずに独自の道を進んで欲しい」