そうだ、葉っぱを売ろう! 過疎の町、どん底からの再生

そうだ、葉っぱを売ろう! 過疎の町、どん底からの再生

 ゼロ・ウェイスト宣言の町と、葉っぱを売って活性化した町、同じ上勝町だったんだと気づいて、改めて読みたいなと手にとりました。

 

P46

 朝から晩まで働いたが、お金のことはまったく考えなかった。それだけ働いても残業代をもらったことは一度もない。そもそも私自身に、残業しているという意識がなかった。

 給料の額も関係なかった。自分が夢中になってやっていることに対しては、自分にとって損なのか得なのか、そういう勘定が頭に浮かばない。とにかく、やるだけだ。

 また、そんなに働いても、休みたいとも全然思わなかった。年齢は20代の前半。普通ならデートしたり、ドライブしたり、遊びたい盛りだ。でも私は、遊びに行きたいともまったく思わなかった。もうひたすら仕事に浸っていた。

 そのころに撮った自分の写真を見ると、純粋というか、野性的というか、ギラギラした目が印象的だ。

 寒害の後で新しい作目に取り組むうちに、私は営農指導よりも販売することのほうがまず大事なのではないかと、動物的なカンから直感し始めていた。

 

P68

「彩」の販売を開始した昭和62年(1987年)から63年(1988年)にかけては、つまものの勉強で料亭へ行けるときは連日のように行っていた。日を空けずに詰めて行くことで、勉強の度合いも深まったからだ。また行く店によって、つまものの種類や使い方が違うことも、大変勉強になった。

 しかし、料亭通いの費用は自腹で出していたので、手取り15万円くらいの給料はすべてつぎこみ、家には1円も入れていなかった。

 もっと正確に言えば、二十歳で農協に就職した当初から、給料は全部仕事の付き合いなどに使って一度も家に入れたことはなかった。

 プライベートな事情を打ち明けると、私は昭和58年(1983年)に、24歳で結婚した。すぐ子どもが生まれ、年子で3人授かった。

 妻の和子は、結婚してからも調理関係の仕事で病院や学校に勤めていた。私の両親とは同居して、三世代が一つ屋根の下で暮らしていた。

 そういうわけで、実は生活費をすべて両親に頼っていたから、やっていけたんだ。このことでは両親に、昔もいまも、深く感謝している。

 それに、そのころはまだ公務員だった父も、小さい子供3人を抱えて働いていた嫁さんや子供の面倒を一緒にみてくれていた母も、みんなが忙しかった。だから生活費を細かく考えることはしていなかったと思う。

 そして何より、結婚した当初から1円も給料を家に入れていなかった私のことを、嫁さんはひと言も非難しなかった。それどころか、支えてくれたほどだった。

 ・・・

「お父さんが使た分は、あとになって返ってくるけん」

 楽観的なのか、先見の明があったのか、嫁さんはいつも快く資金を援助してくれた。

 

P88

 「彩」がつまものの種類をどんどん増やしていったころ、料亭で山菜や野草の料理を知った私は、それも商品化しようと農家に提案してみた。

「どうでしょう、野草のノビルを売ってみませんか」

「ノビル?横石さん、ほんなノビルやかい(なんか)、誰が食べるで」

「道端や、ほこらじゅうに生えて、踏んで踏んでしようもん」

 誰にもまったく、まともに取り合ってもらえなかった。

「これは実際に料亭に連れて行って、料理を見てもらうしかないなぁ」

 私が一生懸命説明するよりも、農家に自分の目で見てもらい、一流料亭の人から直接話をしてもらったほうがいい。それが、つくづく分かった。

 平成元年(1989年)12月、農家に呼びかけ、バスを仕立てて、みんなを大阪のとある一流料亭へ連れていった。参加希望者を募ってというよりも、「行くんじゃ」と、なかば強引にバスに乗せた。

 ・・・

 ・・・料亭の料理人さんに頼んで、おばあちゃんたちに料理やつまものについて解説してもらった。

「こんなふうに葉っぱを使っているんですよ」

「この料理には、こんな野草や山菜を使っています」

 これは、ものすごく良かった。

 おばあちゃんたちが出荷した商品が、高級料亭で懐石料理に使われている。おばあちゃんたちは初めて、得心してくれた。

「あ、ほんまじゃあ」

 私がふだん上勝で説明していることを、一流の料理人から直接その場で聞くと、何倍も効果が高かった。

 行って初めて、おばあちゃんたちが毎日何げなく踏んでいるノビルが、高級料理になって出てくることが分かってもらえた。それからは、道端のノビルも踏めなくなったという。

 

P108 

 平成8年(1996年)2月、転機が訪れた。

 昭和54年(1979年)に20歳で上勝に来てから17年。37歳になっていた私は、このころにちょっと、そろそろ、もうこれぐらいでいいかなあという気持ちが出てきていた。

 ・・・

 ・・・転職を考えた最大の理由は、子供の将来の心配だった。・・・

 ・・・

 ・・・公務員の父親も、そろそろ退職する歳を迎えていた。

「このまま親のすねかじりというわけにはいかんなぁ、困ることが出てくるだろうなぁ」

 一番上の子が中学校に行くようになり、これからは受験や進学で3人の子供のことに、どんどんカネがいるなという心配が大きくなっていた。

 このころ私の給料は手取りで18万円か19万円ぐらい。カネのことは考えず、やりたいようにやってきたが、さすがにこの給料のままでは先行きが厳しいと感じていた。

 ・・・

 私が所長に辞表を出したことは、あっという間に上勝町内に知れわたった。・・・

 ・・・

 辞表を出した翌朝、彩部会の部会長だった下坂美喜江さんが農協にやってきた。

 ・・・

「横石さん、これな」

 下坂さんは神妙な面持ちで、「横石様」と書かれた封筒を私に差し出した。

 何かなと封筒の中をのぞいてみると、厚みのある紙の束が入っていた。最初のページの右端には、嘆願書、と書かれている。

 ・・・

「こんなにも私らは、横石さんにあれこれしてもろとって。ほれやのに自分やは、何のお返しをすることもせんで、ほんまにすまなんだ」

 そんなふうに話ながら、下坂さんは涙ぐんでいた。

「えっ」

 意表を突かれた私は、びっくりした。

「嘆願書って……」

 言葉が続かなかった。

 驚きながら、そこに書かれた文面を急いで読み進むうちに、私の両方の目には涙があふれて、文字がゆがんだ。

 ・・・

 2月25日に農協に辞表を出すと、その翌日からは私を引き留める動きがたちまち巻き起こった。嘆願書だけでは済まなかった。

 家には電話がじゃんじゃんかかってきて、手紙も何通も届いた。全部、辞めないでほしいという内容だった。

 また、知らないところで町のみんなが集まり、会合を何度も開いていた。

 ・・・

 話し合いの中から異例の人事が持ち上がった。

 ・・・

「とにかく、横石に上勝におってもらわないとダメだ」

 そういう意見が強く、話し合いの結果、私の籍を農協から役場へ移して、私が必要とするぐらいの十分な給料を役場から出そうということになった。

 ・・・

 私が結局、上勝に残ることにしたのは、この特別な提案をいただいたことも大きかったが、やっぱり一番の決め手となったのは、嫁さんの言葉だった。

「こんだけ大事にしてくれるんだったら、やったらわ」

 ・・・

 しかしそれ以降、まるっきり農協からは遠ざかってしまうことになる。

 ・・・

 そして私がいなくなった後、農協の売り上げは危機的なまでに急落していった。・・・

 ・・・

 平成8年(1996年)度は15億円だった売り上げが、翌9年(1997年)度には約14億円に落ち、それ以降も12億、8億と、ガタガタガタガタ……と落ちていった。

 ・・・

「ここはもう、横石さんに現場に戻って来てもらって、前みたいにもっと売り込みをかける形にせなあかん、このままいったら売り上げはゼロになる」

 対策を話し合ったみんなは、合併して経営が総合的になっていた農協に頼んでも難しいと判断し、役場にそのことを相談した。

 ・・・

 ・・・その結果、第三セクター方式で株式会社をつくり、会社の責任者に「横石」を据えるのが一番いいだろうと提案した。

 ・・・

 農協の売り上げが落ちていき、あきらめ気分で傍観しているしかなかったところに、再びお鉢が回ってきたのだ。私は水を得た魚のように、新会社の事業計画を練り進めていった。

 しかし、いまでもよく私が個人的にこのような会社の設立を考えなかったかということを質問される。そのほうが、私の収入はよほど増えただろうに、と。それは、まったく考えなかった。個人的な事業にするより、農家一人ひとりが事業家になるほうが、いい結果が出る。そのほうがみんなも面白いし、やる気も増す。おばあちゃんたちのいまの笑顔を見れば分かる通り、その狙いは当たっていた。