僕たちはどう生きるか

僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回

「すばる」に連載されていたエッセイがまとめられた本。

 もともと気候変動特集号に合わせて、地球環境の大規模な変化を前に、どのように言葉と思考の常識を編み直していくか、ということを書いていく予定でいたところ、連載開始とパンデミックが重なったそうで・・・タイミングが見事に合ったのだなぁと思いました。

 

P129

 芸大が企画した、ティモシー・モートンのオンラインレクチャーを見る。・・・

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「Geotrauma」と題された講義の主題は、「悲しみ(grief)」という人間の感情であった。

「悲しみは人生の大きさをしている」と彼は語った。悲しみはちょうど一人の人生と同じ大きさをしている。だから悲しみの外へ出て、これを俯瞰することはできない。人は、悲しみの渦中にいることしかできない。

「悲劇は、圧倒的に広大な喜劇の空間の、小さく、かぼそい断片に過ぎない」ともモートンは語った。悲しみを抑え込み、不安に目を背け、悲劇から逃れようとするのではなく、悲しみのなかにあらゆる感情が混ざり合っていることを、ありのままにゆるす。まるで賑やかな生態系のように、希望と恐怖と痛みと怒りと喜びと笑いがひしめき合う。これこそ「喜劇(comedy)」ではないか、と。

 僕はこの話を聞きながら、悲しみは、感情の土壌なのかもしれないと思った。肥沃な土壌に、多様な植物が育っていくように、悲しみの土壌が豊かであればあるほど、そこに深い喜びや希望も育つ。

 僕はまた、法然院の梶田住職の言葉を思い出していた。住職はかつて、「他者のために他者の安らかなることを悲しみ願う」ことこそ「悲願」という言葉の真意ではないかと語った。僕はこのとき、「悲願」という言葉の魂に、初めて触れたような気がした。モートンの哲学にも通じる、人間の「弱さ」に根ざした思想だ。

 

P180

 食べるという行為を精微に捉えようとすると、どんな風景が浮かび上がるのだろうか。これに関して、生物学者福岡伸一が面白い研究を紹介している。それは、ドイツに生まれ、アメリカに亡命したユダヤ人科学者ルドルフ・シェーンハイマーによる実験である。

 シェーンハイマーが立てた問いはシンプルだった。それは動物が何かを食べるとき、食べものはどこに行くのだろうかという問いだ。これを確かめるために彼は、同位体標識法という手法を用い、元素に目印を付け、その元素を含むアミノ酸を作って、ネズミに三日間食べさせてみた。

 シェーンハイマー自身は、食べものはネズミの体内で燃やされ、しかるべき時間が経過したあと、燃えかすが呼吸や糞尿となって排泄されるだろうと予想していた。だが実験の結果は予測を裏切るものであった。目印を付けたアミノ酸は、ネズミの全身に飛び移り、その半分以上が、脳や筋肉、消化器官や骨、血管、血液など、あらゆる組織や臓器を構成するタンパク質の一部となっていたのだ。

 食べることは単にカロリーをとることでも、栄養を摂取することでもなかった。精微に調べてみると、食べることは、文字通り自分の体の一部が、食べられたものに置き換わっていく過程であることがわかったのだ。

 ・・・僕たちがえんどう豆を食べ、魚を食べ、リンゴを食べるときには、えんどう豆や魚やリンゴを構成していた分子が、それまで自分の身体を構成していた分子と置き換わっていく。さっきまでえんどう豆だったものが僕になり、さっきまで魚の一部だったものが自分の一部になる。まるでカメレオンのように、僕はキャベツになり魚になりトマトになりスナップえんどうになる。精微に調べてみると、想像以上にシュールなことが、食べるときにはくり広げられている。

 少なくともただカロリーや栄養を摂取しているだけというのは、食の理解としてあまりにも解像度が低い。僕たちは食べるとき、もっと愉快で、壮大なことをしているのかもしれない。