他者の靴を履く つづき

他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ (文春文庫)

 ちょっと難しくてちゃんと理解できているかわかりませんが、この辺りも印象に残りました。

 

P87

 デヴィッド・グレーバーは、無くなっても世の中の誰も困らない仕事のことを「ブルシット・ジョブ」と呼んだ。・・・

 ・・・グレーバーの言う「ブルシット・ジョブ」とは、「どうでもいいことをして何かをやっていると人々を説得しようとしているナンセンスな仕事」ということであり、彼の説では受付、秘書から人事、管理職、広報までオフィスで働くほとんどの人がこれにあたる。・・・会議だのプレゼン資料づくりだのに明け暮れているホワイト・ワーカーは、無くてもいい無駄な仕事を延々と作り出し、自分たちが働くための仕事を製造する目的で働き続けている無意味な集団だと彼は言う。

 だから「ブルシット・ジョブ」従事者たちが自宅勤務に切り替えたり自主隔離しても社会は直接的には困らなかった。が、キー・ワーカーたちは違う。ウイルス感染の危機に晒されながら淡々と患者の世話を続ける看護師、自主隔離する同僚が出て来て人員がギリギリになってもキー・ワーカーたちの子どもを笑顔で迎える保育士など、どういう仕事が「ブルシット・ジョブ」ではないのかということをコロナ危機はあからさまに炙り出した。

 グレーバーは、こうした仕事をする人々を「ケア階級(caring classes)」と呼ぶ。彼によれば、それは主に医療や介護、教育などの分野で働いている人々で、他者(患者、お年寄り、子どもなど)を直接的にケアする仕事についている人々だ。2019年12月、英国の総選挙で労働党が大敗した後にグレーバーは「From Managerial Feudalism to the Revolt of the Caring Classes(管理職封建制からケア階級の反乱へ)」という講演を行った。・・・ケア職の人々は実際に社会の人の役に立つ仕事をしているが、ブルシット系の仕事のほうが報酬が高い。

 金融危機以降、人々はなぜか教員などの社会に奉仕する職種の人々をバッシングするようになり、「子どもに教えているだけなのにお金を貰いすぎ」などと言うようになった。これは自分の仕事が実はまったく無意味で、あってもなくても誰も困らないことを知っているがゆえに、意味のある仕事をしている人がいるとムカつきを感じるからではないかとグレーバーは言う。自分のやっていることが不必要と知りながら、上司の目を気にして早く帰れないから何かをしているふりをするなどして毎日無為に時間を過ごすことは、人間の生活をどれほどミゼラブルにするだろうと彼は説く。だから、「意味と価値のある仕事をやっている人は、金銭的報酬までいらないだろう」という倒錯した考え方になっているのではないかとグレーバーは言う。

 ・・・

 ・・・コロナ感染拡大で欧州が揺れに揺れているいま、真に社会を回している人々として喝采を浴びている「キー・ワーカー」とは、要するに「ケア階級」の人々である。この事実には、グレーバーでなくとも歴史の潮目を感じずにはいられないだろう。

 前述のグレーバーの講演で感動的だったのは、彼は「ケア」と「自由」は繋がっていると明言している点だ。その理由として、彼は刑務所を挙げる。刑務所は囚人たちに食事を与え、衣服を与えて病気になれば治療を施す。しかし、刑務所が囚人にすることは「ケア」とは呼ばれない。他方で、親が子どもにすること(食事を与え、衣服を与え、病気になれば治療する)は「ケア」と呼ばれる。なぜだろう。

 それは、親が子どもの世話をするのは、子どもが遊べるようにするためだからだとグレーバーは言う。遊びというのは究極の自由であり、人は誰かを自由にするためにケアするのだと論を進める。・・・

 ということは互いをケアし合い生きていく人々の世界は、人々が互いを自由にする世界ともいえる。・・・

 

P149

 レベッカ・ソルニットが著書『定本 災害ユートピア』・・・の中でこんなことを書いていた。

 ・・・

 ・・・彼女は災害時のユートピアをこう表現する。

 

 人々が互いを救助して気にかけ合い、食料は無料で与えられ、生活はほとんど戸外のしかも公共の場で営まれ、人々の間に昔からあった格差や分裂は消え去り、個々の直面している運命がどんなに厳しいものであっても、みんなで分かち合うことではるかに楽になり、かつて不可能だと考えられていたことが、その良し悪しに関係なく、可能になるか、すでに実現していて、危機が差し迫っているせいでそれまでの不満や悩みなど吹っ飛んでしまっていて、人々が自分には価値があり、目的があり、世界の中心だと感じられるーそんな社会を。

 

 もちろん、こんなミラクルのような経験は一瞬のもので、一過性の特別な状況である。だとしても・・・

 

P162

 興味深いことに、この他者の生存を助ける行為は、けっして利他的とは言い切れないとソルニットは分析する。彼女は、利他主義と民主主義について書いた本『サマリタンのジレンマ」(デボラ・ストーン著)から次の部分を引用している。

 

 利他主義者たちの証言から、驚くべきパラドックスが浮かび上がった。彼らの多くが利他主義的な行為を自己犠牲とは見ていない。むしろ、ギブとテイクが同時に起きる相互的な関係だと見ている。他の人々を助けると、彼らはその人たちとの間に連帯感を得る。人に何かを与えたり、人を助けたりすることは、彼らに、彼ら自身より大きい何かの一部であるという感覚を与える。他人を助けると、自分は必要とされている価値のある人間で、この世での時間を有効に使っていると感じさせる。他人を助けることは、生きる目的を与えてくれる。

 

 災害時には、利他的になりたい人の数が急増し、利他主義者になりたいという人々の欲求が切羽詰まったものになるとソルニットは言う。これは、自分の生活や生命が脅かされる経験の中では、生きる目的が必要であり、「楽しい、悲しい」の次元を超えた、深く濃い時間を過ごさなければ、自身のサバイバルも難しい状態に人間が陥るからだ。だからこそ、ソルニットは言う。9・11事件の発生後、「ニューヨークの通りという通りには、何か与えられるものはないか、(中略)なんとかして意義あることができないかと探し回る人々であふれ返った」と。

 しかし、平時の「共存」とも「共生」とも違う、緊急時の「共生存」のユートピアは日常が戻ってくると姿を消す。代わりに表出してくるのは、対立である。・・・

 

P272

 ・・・エゴイストは利己的な人びとだ。自分を利すると思える、ということが行動の基準となる。しかし、自分の視野を広めるために働かすエンパシーは、他者への思いやりにも繋がる。愛にしたって、人を愛するのは自分にとって気持ちがいいからするのであり、対象のために注いでいるとは言い難い部分もあるが、対象も愛されることによって気持ちがよくなる。利己的であることと利他的であることは相反するコンセプトではなく、ほとんど必然的に一体であるといってもいい。己も他も、とどのつまりが人間だからである。システムや立場や組織や権威などではなく、人間をまず利していこうとする態度だからだ。

 だからこそシュタイナーはエゴイストが増えれば増えるほど社会から対立や争いは減ると考えていた。自己を物事の中心に置く人々は「『わがまま』を認めて許し合う」からだ。そしてエゴイストであることを停止して何かに自分を明け渡し、進んで何かに支配される人が出てこないよう、エゴイズムは相互扶助(トップダウンの支配関係とは違う水平の助け合い)の方向に進まなければならないと信じていた。

 さらに、他者の靴を履くことが複合的に物事を見る訓練になるのだとすれば、それもまた「エゴイストの連合」の実現のためには不可欠である。いまここにあるシステムや考え方や理想や常識(「集団の善のためには個人のエゴは慎まねばならない」「わたしの利益はあなたの損失である」「利己と利他は相反する概念である」など)とは違う別の世界は可能だと思える想像力がなければ、誰が提唱するどのようなヴィジョンであれオルタナティブは「あり得ない」としか思えない。