ニット作家の三國万里子さんのエッセイ、こんな感じの感性の文章は読んだことなかったかも、と新鮮に思いました。
P26
当時住んでいた埼玉県の春日部にリブロという大きな書店があった。発売間もないある日、気になって、手芸書のコーナーを見に行った。
『編みものこもの』は置いてもらえているか。
置いてあるとして、どうしているか。
あった。
ひっそり1冊、たくさんの手芸書の間に、背表紙だけ見せて。次の日も見に行った。驚いたことに、手芸書の棚に行き着く前に、胸に『編みものこもの』を抱えて歩いている若い女性を見つけた。
「あの、それ!」
反射的に声をかけた。
女性は驚いてわたしを見返した。
わたしはその後の言葉が続かず、本を奪い取って奥付のページの写真と自分を交互に指差して「それ、それ、わたし」、としどろもどろに口ごもった。女性は事態を察してくれて、ああ、と笑顔になった。あなたが作った本なんですね。二人でひとしきり笑い、照れくさくなったわたしは礼を言って、その場を去った。
それ、わたし。
『編みものこもの』は、わたしだった。
編み図はわたしの言葉だった。編んでもらうことで、例えば楽譜を演奏するように、詩を音読するように、わたしが体感している幸せやスリルや困難を追体験してもらうための。うまく世界と関われなかった長い年月の後で、わたしは本という形で自分を世界に手渡した。
P195
結婚してから、花見は近場の公園と決まっている。
この20年のうちに数回引っ越したが、そのたびに夫がちゃっかりと、良さそうな桜が植わっている手近な公園をいつの間にか見つけてくるので、どこにしようかと迷うことはない。ニ十歳の息子は参加しないので、夫婦二人の花見だ。
手筈を整えるのは夫の役目で、予定の前日までに、公園への道筋にある寿司屋に電話して生寿司を二人前予約しておく。物入れから昔キャンプで使っていた折りたたみの椅子を2脚と簡易テーブルを取り出し、日本酒の四合瓶1本と酒器ふたつと共にキャンパス地の手提げに入れる。
日曜日の今日、ちょうどよく晴れて、昼少し前に家を出た。
途中で寿司を引き取り、ぷらぷらと目当ての公園まで歩く。
・・・
それぞれに寿司桶のラップを剝がし、夫が二人分の酒器に酒を注ぐ。夫のはフリーマーケットで買った塗りの一合升で、わたしのは大学時代から持っているムーミンの小さなマグだ。小ぶりなところが日本酒にちょうどいい。
「何はともあれよかったね、今年も健康で、花見ができて」
わたしがいう。
「ああそうだね、おめでとう」
夫はうれしそうに、もう飲んでいる。
「ここのお寿司屋さん、本物の笹を使っていていいね。でもなんかこれ、野性味があるね。端っこが白くなってるし。この公園で採ってるのかもね」
「かもねえ」
「今日は寒いね。花見の頃はまだ寒いって、毎年思うんだよね」
「そうだね」
夫婦の会話って、たあいない。
見たまんま、思ったまんまのことを口に出す。
相手はせいぜいそうだね、とか、そうかな、と相槌を打つ。
・・・
「なんで桜ってさ、あんなにきれいなうすーい色なのかなあ」
夫が信じられない、というようにつぶやく。
たぶん20回目くらいに。
「そうだよねえ」とわたしが答える。
わたしの寿司桶の中、12貫あったお寿司がもう半分になっている。
「お寿司、かわいいね。1貫ずつに、センチメントというか、ポエジーっていうか、そういうのがあるよね」
横文字が出てくるのは、わたしも酔ってきたってことだ。
お寿司、ちんまりして、まぐろが赤くて玉子が黄色くて海老がピンクで、やっぱり笹の葉が敷いてあるのが大事なんだよね。きれい。
寿司の色に高揚したのか、わたしは、ふだんあまり言わないようなことを言う気になった。
「わたしこの頃、しあわせで、いつ死んでも大丈夫って思うんだよね。もちろん死にたいわけじゃないけど。せいじも育ったしさ」
夫はうなづいた。
「それはしあわせなことだね。実は俺もそうなのさ」