サキとアト

世界の辺境とハードボイルド室町時代 (集英社文庫)

「世界の辺境とハードボイルド室町時代」という面白い本を読みました。

 日本の室町時代と辺境がそっくり、ということで、辺境を旅する高野秀行さんと、中世の研究者清水克行さんの対談をまとめたものです。

 へぇ~ということがいっぱいでした。こちらは時間の概念についての話です。

 

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清水 日本語に「サキ」と「アト」という言葉があるでしょう。これらはもともと空間概念を説明する言葉で、「前」のことを「サキ」、「後ろ」のことを「アト」と言ったんですが、時間概念を説明する言葉として使う場合、「過去」のことを「サキ」、「未来」のことを「アト」と言ったりしますよね。「先日」とか「後回し」という言葉がそうです。でも、その逆に「未来」のことを「サキ」、「過去」のことを「アト」という場合もありますよね。「先々のことを考えて……」とか、「後をたどる」なんて、そうです。「サキ」と「アト」という言葉には、ともに未来と過去を指す正反対の意味があるんです。ところが、そもそも中世までの日本語は「アト」には「未来」の意味しかなくて、「サキ」には「過去」の意味しかなかったようなんです。

 現代人に「未来の方向を指してみてください」と言うと、たいていは「前」を指さしますよね。でも、そもそも古代や中世の人たちは違ったんです。未来は「アト」であり「後ろ」、背中側だったんです。

 これは勝俣鎭夫さんという日本中世史の先生が論文に書かれていることなんですが、戦国時代ぐらいまでの日本人にとっては、未来は「未だ来らず」ですから、見えないものだったんです。過去は過ぎ去った景色として、目の前に見えるんです。当然、「サキ=前」の過去は手に取って見ることができるけど、「アト=後ろ」の未来は予測できない。

 つまり、中世までの人たちは、背中から後ろ向きに未来に突っ込んでいく、未来に向かって後ろ向きのジェットコースターに乗って進んでいくような感覚で生きていたんじゃないかと思います。勝俣さんの論文によると、過去が前にあって未来は後ろにあるという認識は、世界各地の多くの民族がかつて共通してもっていたみたいなんです。

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 ところが、日本では一六世紀になると、「サキ」という言葉に「未来」、「アト」という言葉に「過去」の意味が加わるそうです。

 それは、その時代に、人々が未来は制御可能なものだという自信を得て、・・・神がすべてを支配していた社会から、人間が経験と技術によって未来を切り開ける社会に移行したことで、自分たちは時間の流れにそって前に進んでいくという認識に変わったのかなと思います。

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高野 その「サキ・アト」に当たる言葉は、外国語でも理解するのがけっこう難しいんですよ。未来のことを言っているのか、過去のことを言っているのかわからないことがしばしばあるんです。ソマリ語もそうなんですよ。

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 前のことを「ホレ」と言って、これは未来のことでもあるんですが、過去のことをいうときも「ホレ」と言う。しかも、後ろを指すしぐさをしながら「ホレ」と言うんです。・・・

清水 ・・・勝俣先生の論文は「バック・トゥ・ザ・フューチュアー」・・・というタイトルなんです。

高野 そんなタイトルの歴史論文があるんですか(笑)。

清水 有名な映画のタイトルと同じですよね。・・・ただの言葉遊びではなくて、古代ギリシャなどでも、もともと未来は「後ろ」にあると認識されていたから、「未来にバックする」という言い方があるんですって。・・・