あの人の宝物

あの人の宝物: 人生の起点となった大切なもの。16の物語

 それぞれの方の、たいせつなもの、を通して語られる人生、興味深かったです。

 

こちらはイラストレーターの田村セツコさん。

P12

「三十年くらい前、アメリカの『マドモアゼル』という女性誌に小物として載っているのを見つけて、どうしても欲しくなって、アメリカのお友達に、もしこのポスターを発見したら送ってくださいとお願いしたの」

 半年後、はたして海を渡ってやってきたポスターは、「毎日見てもいまだに飽きない」とのこと。

「汗がにじんだバレエシューズ。質素なお稽古場の床。これを見ると、心が落ち着く。私も一生こういうふうに生きていきたいなって思うの」

 飾り気のない少女の静謐な横顔。使い古されたバレエシューズ。傷だらけの床。もっとうまくなりたいという少女の祈りにも似たバレエへの一途な思いが、カメラマンのフィルターを通して見るものに迫る。

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「私は紙と鉛筆があればいい。画集も、立派なのじゃなくてハンドバッグに入るような小さなのでいいの。展示も、大きな画廊ではなく、小さな町のギャラリーの方が、私の絵には合ってる。無理して言ってるんじゃないのよ。その方が私の身の丈に合っている。紙と鉛筆さえあれば私はこれからも幸せ。このふたつが私の魔法のツールです」

 いまは、ポスターのバレエの少女のように、好きなことを追いかけるシンプルな気持ちを大事にしたい。言葉に書くのは簡単だが、とても強いなにかがないと、そういう境地にたどり着くのは難しい。そう言うと、田村さんは「うーん」としばらく黙りこんだ。そして控えめに、ゆっくりこうつぶやいたあと、照れくさそうに笑った。

「私なりにやりきったという自負があるから、かしら」

 依頼される仕事に手を抜かず、百二十パーセントの力で返す。そうやって、何十年と走り続けてきたからこそ言える誇りに満ちた言葉の重みに、私は静かに圧倒された。

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 また、こんなこともあった。バスの中に、原画を十五点入れたバッグを忘れてきた。バス会社にも聞き、散々探したがとうとう見つからなかった。

「あれを拾った人は嬉しかったんだろうなあって。返したくないほどいい絵だったんだな。その気持ち、わかる、なぁんてね。半分冗談だけど、そう思うようにしたの」

 あの……、それは本当に?見えない相手への怒りとか、どうしようもないやるせなさとか、そういった気持ちはないのでしょうか?そう聞くと、田村さんは首をすくめ、冗談めかして答えた。

「私は怒りを持続する頑張りがきかないのよ」

 いや、そうは言ってもと食い下がると、今度はまっすぐな眼差しで、きっぱりこう言った。

「トラブルには必ず、学べてよかったと思えるヒントと、悪かったことの両面があります。怒りを手離すヒント、嫌なことを考え続けるのをあきらめるヒント。人生に必要なことをトラブルから学べる。たとえばね、ひどいことをする人を許す快感というものもあるのよ。それを味わえたら、ああ良かったわ、嬉しいって思うの」

 

 こちらは家事評論家の吉沢久子さん。

P41

 週一回、五十年来続いている『新潟日報』の家庭面の連載「家事レポート」だ。これだけの歳月、続いていることも見事だが、私は、書くために『新潟日報』を購読しているということにいたく驚いた。新聞でも雑誌でも、執筆者には掲載紙誌が編集部から送られる。わざわざ自分が料金を支払ってまで、とることはしないのが普通だ。

「夫の古谷綱武は、地方の人の暮らしを知ることは大切だと常々言っておりました。東京にいただけでは、わからないことがあると。新潟日報ではとくに、読者投稿欄を読みます。そうするといま、新潟の人はどんなことを考え、どんなことに困ったり、喜んだりしているか、足元の生活が見えてきますから」

 

 こちらは日傘作家のひがしちかさん。

P124

 丸一年悩み続けた。そして、悩みすぎて悩みが底をついた。シアタープロダクツ時代から、風呂を貸してくれたり相談相手になってくれた同郷の友達が、あるとき言った。

「悩むより考えたら?」

 貯金もない。時間もない。おまけにやりたいことがなにかもわからない。ないことを考えて「悩む」のではなく、いまの自分になにができるか「考えろ」、というわけだ。

 ひがしさんは仕事を辞めた。そして、晴れて〝無職のお母さん〟になった。生活費はどうしよう。どうやって食べていこう。不安と解放感がいっしょくた。これ以上、失うものはない。ひとつだけ、心に強く誓った。

「もう履歴書は書かないって決めたんです。自分で自分の仕事をしようって」

なにになら、人は自分にお金を払ってくれるだろう

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 考え抜いて、最後に残ったのは次の五つだ。

 やる気。体。ミシン。裁ちばさみ。絵を描いて生きていきたいという気持ち。・・・

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 次にこの五つを使ってなにができるかを書き出した。

「子ども服、子どもの雑貨、バッグ……。ラフを描いたり、試作をしたり。でも、なにをつくっても、全然ドキッとしないんです」

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 ああ、どうしようどうしようと切羽詰まりながら、夕方、保育園へ娘を迎えに行くために母子寮の玄関で靴を履いた。ふと自分で刺繍を施した白い日傘が目に止まった。学生時代、三百円くらいで買った白い傘に、遊び心で刺繍をしていたものだ。

「あ、これかもしれないって思いました。絵を描いたり、刺繍をしたり、一点ものの傘は大量生産の企業にはできないこと。中途半端なことをしないためには、企業の対極にあることをしないと。ひとりだからこそできることに特化しようと思っていた私に、まさにぴったりでした」

 母子寮の一階の隅で埃をかぶっていたタウンページで、傘の骨を扱う業者に端から電話をして、「骨を売ってくださいませんか」というところから始めた。・・・

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「最初は原価や棚卸し、経理の右も左もわからない自転車操業。製造業というのは、シアタープロダクツのときに見ていたので知っていましたが、最初は支払いが続いて、収入があるのはずっとあとなんですね。最初の三年はつくったものは全部売れても儲けがなくて、支払い終わったら本当に生活費が全く残ってないという月がありました。そのときは娘の父親に電話をして〝一万円ください!〟とお願いしました。あのね、これは借りるんじゃないの。返せないから、ちょうだいってね」

 案のごとく、この人の話は陽気で愉快だ。好きなことを仕事にできる喜びがどんな苦しみも凌駕する。いや、彼女は苦しみなんて思っていないのだろう。創業六年、清澄白河にアトリエとショップを構え、スタッフ三人を抱えるいまでも、「やりたいことが追いつかないくらい、泉のように傘のアイデアが湧いてくる」と目を輝かせて語る。朝四時に起きて、すぐにアトリエに出かけ、誰もいない冷えた空気の中で、デザインやアイデアを考えるのが一番楽しくて好きな時間だ。二十四時間、自分の時間を生ききる喜びの尊さを、誰よりも知っている。それは、八時間、心を無にして生きたことがあるからわかる価値の重みだ。だから、玄関で刺繍の日傘を見たあの日から、収入や寝る間や評価があろうとなかろうと、苦しみはひとつもない。