夏井いつきさんのエッセイ、面白かったです。
フルカワ先生のちょんまげ発言はすばらしい・・・
P150
私の師匠は、俳人黒田杏子。
かつては博報堂勤務のプランナーであり、雑誌『広告』の編集長も務めていた。私が、黒田杏子という俳人を知ったのは、本屋での立ち読み。当時、現代俳句女流賞と俳人協会新人賞をダブル受賞した時の人だった。
何気なく手にとった俳句総合誌に、第一句集『木の椅子』五十句抄が掲載されていた。立ち読みし始めたが、数句読んで、こりゃいかん!と本を閉じた。立ち読みで済ませるようなもんじゃない!レジへ直行し、そそくさと家に戻り、改めて読み耽った。
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好きな句を挙げればきりがないが、この句集との出会いで、私は俳句を真剣にやってみようと思った。そして未知の俳人黒田杏子の弟子になると、その場で勝手に決めた。
勝手に決めただけで、特に何をしたわけでもない。四国の片田舎で日々忙しく中学生と格闘し、子育てに奮闘し、時折手に入る俳句関係の本を読み、折々俳句らしいものを書き付けていただけだ。それを独学と呼ぶのならば、秘かな独学であったかもしれない。
勝手に決めた師匠との接点が生まれたのは、某月刊誌。黒田杏子を選者とする新しい投句欄の存在を知り、第一回から投句を始めた。五句だったか七句だったか記入できる投句用紙が添えられていて、三ヶ月後の号に結果が載る。一句でも載ると励みになった。
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勝手に弟子を決め込んで五年か六年経った頃。
黒田杏子の句に憧れて、あんな句を作りたいと頑張ってきたのに、俳句が全く作れなくなった。好きだった俳句がひどく苦いものに思えてきた。なんのために俳句やってんだろと、苦しみ始めた。
そんなある日、私の心に、小さな光る泡っぽこみたいな感情が生まれた。どんなに足掻いても、黒田杏子になれるはずがないではないか。万が一それらしいものになれたとしても、それは「杏子2号」に過ぎない。誰かの偽物になるために俳句をするのか。
私は「いつき1号」になるしかない。こんな簡単なことに気づくのに浪費した時間が勿体なく思えた。以来、益々俳句が好きになり、益々勉強を始め、俳句と共に生きようと勝手に決心した。
「夏井さんの句柄と、黒田先生の句柄はかなり違うように思えますが」
という質問をぶつけられることがある。私は逆に質問を返す。
「先生の句柄に限りなく近い句を作る弟子を、先生が喜ぶと思われますか?」
ハッとする人もあれば、怪訝な顔をする人もある。
「先生から何を吸収し、どんな自分を表現するか。それが表現者としての目的であって、それすらできないような弟子を育てることに、先生はなんの興味もお持ちではないと思います。少なくとも、私が師の立場にあるとすれば、そんなナサケナイ弟子しか育てられない自分は、人を教える能力に欠けているとの自己評価を下すに違いありません」
P280
中学三年間、一つ上の学年をずっと担任していたフルカワ先生の存在も、我が人生において強烈だった。女子バレー部の担当でもあったので、部活動の顧問として三年間お世話になったが、教科は美術と体育を教えてもらった。・・・
フルカワ先生とは、私が教員となり教員をやめてからも、ずっとご縁が続いた。シングルマザーとなってから、中古の一軒家を借りたのだが、その家主さんがフルカワ先生だったからだ。
フルカワ先生語録のうちの一つ。「失敗はデータや」という考え方は、我が人生において実際的に役立った。失敗を嘆いたり悔んだりするのは心と時間の無駄遣いだ、と考えられるようになった。
フルカワ先生のバクダン発言。
先生が校長になって赴任した学校は、なかなか荒れていた。教員の車に傷をつけたり、ガラスを割ったりという事件が多発していたそうな。フルカワ校長は、四月最初のPTA総会で、集まった親たちに向かってこう宣言した。
「私は、生徒を守りません!器物損壊は犯罪である。万引きも犯罪である。罪を犯したら、警察のお世話になる。それを教えないといけない」
職員室での大傑作発言もある。生徒たちの長髪や剃り込みの指導に手を焼くと訴える教員たちに、校長は言い放ったらしい。
「分かった、うちの学校の校則を変えちゃる。今日から、チョンマゲぢゃあ!なんぼでも髪伸ばせ、月代を剃れ!」
ほんとにそれをやりかねない校長だと、教員も生徒もビビったという笑い話。・・・