「その後」のゲゲゲの女房

「その後」のゲゲゲの女房

 表紙の「あるがままに。すべてに感謝!!」という言葉を見て、ほんとうにいつもそうありたい・・・と思い、手に取りました。

 

P3

 思えば私の人生は、自らオールを手にして舵をとる生き方ではありませんでした。自分一人の力で逆流を乗り越えることなどできるわけもなく、本当に川を流されるように生きてきた人生です。

 人様に誇れるような人生ではありませんが、これからもずっと、あるがままに自然体で、自分に起こるすべてのことや、関わってくれるすべての人たちに感謝して生きて行こうと思っています。

 

P148

 水木は数多くの自著の中で、いろいろな言葉を残しています。・・・

 ・・・

 たとえば水木はあるとき、次のように書いています。

 

 思い巡らすと、水木サンの過去は駆け足の如くいつも忙しかった。

 老後の「めし」のことまで心配していたせいかもしれないが、人間というものは金がないと安心できないものだ。

 例えば宗教なんかに凝って、金以外で安堵の道を求める人もいるが、

 まァ普通は少しばかり金を貯めてホッとする道を選ぶものだ。頭は良いけど金の儲からん人もいる。

 そういう人は得てして「悟り」とか「金を否定する心」になったりして幸福ぶってみるわけだ。

 しかし、人生大きな声を出して「これぞ価値だ」と言うのもバカバカしいような気がする。

 要は虫とか植物みたいに自然に順応しながら「屁」を出しているのが一番幸せなのかも知れない。

 時には屁を止めたり、溜めてみては大きな屁をひねってみるというのも面白いだろう。

 要するにすべては屁のようなものであって、どこで漂っていても大したことはないようである。

(『人生絵巻のお話』)

 

 この言葉は、水木の人生観を言い表わしているように思います。水木はつねづね、人間も虫や植物、そのほかの動物と同じ大地に生きるものであること。一生懸命生きている虫や草も人間と同じだと話していました。

 

P158

 水木は自著『水木サンの幸福論』(角川書店)のなかで、こう書いています。

「ベビィのころは誰もが、好きなことに没頭して生きていたはずだ。人間は好きなこと、すなわち〝しないではいられないこと〟をするために生まれてきたのです」

 

P176

 私にとって初めての著作となる『ゲゲゲの女房』を出版していただいてから、早くも10年という月日がたちました。

 普通の主婦に過ぎない私の話を多くの皆さんに読んでいただき、本当にありがたく思っています。そして、3年前には、水木が帰らぬ人となりました。お葬式や法事などを家族の助けで何とか過ごし、日常生活を取り戻したこの頃。落ち着いた日常に、つくづく水木の不在を感じて寂しく思っています。

 そんな最近の私の心情は、「あるがままに、すべてに感謝」という言葉がしっくりきます。前作の『ゲゲゲの女房』では、「終わりよければ、すべてよし」という言葉で締めさせていただきましたが、あれから10年たって、少し変わってきたようです。

 ・・・

 ・・・水木に、

「お母ちゃんは、生まれてきたから、生きている」

 と言われるくらい、今までの私は水木の背中だけを見つめ、自分自身のこれからについては考えずに生きてきました。

 ですから、終わりに向かって歩いていくのではなく、これからの人生もあるがままを受け入れて、いろいろなことに感謝して生きていきたいと思っています。

「あるがままに生きる=無為自然」という言葉が、今の私にはぴったりくるのです。

 そうは言っても「あるがままに生きる」のは、そう簡単なことではありません。なので、「終活」ならぬ「無為自然活」を心して、自然体で歩いていきたいですね。朗らかに、毎日流れるままに人生を全うできれば、『上等』だと思っています。