身体と神経と脳と・・・

記憶がウソをつく!

 ふだんあまり意識せずとも勝手に動いているこの身体や脳って、面白いものだなぁと改めて思いました。

 

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古館 いいスイングが一度できたらずっとそれを覚えていてもいいのに、そうはならない。なんでゴルフは忘れちゃって、自転車と水泳は忘れないのかなっていうのが不思議なんですよ。

 

養老 やはり一つには、全身が関わっているということでしょうね。ボールを打つっていうのはそうじゃなくて、かなり部分的ですからね。

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古館 なるほど。ピアノなんかは、まあ、よほどやれば思い出していくけど、二十年ぶりにやったって全然ダメっていうのは、それが全身運動じゃないからかもしれない。だから、身体で覚えろっていう言葉があるのかもしれませんね。全身で覚えろっていうことなんだ。

 

養老 面白いことをオリバー・サックスっていう人が『左足をとりもどすまで』という本で書いています。たとえば、足やなんかの神経を切って、後でつながったという場合にこういうことが起きるんです。・・・神経が切れて足が動かなくなると、いろいろな症状が出てくる。そのいちばん極端な症状は、自分の足が自分の足じゃなくなるってことなんですよ。これは実際そうなってみないとわからないことですけど、みなさん、普通は自分の手や足は自分のものだと思っているでしょう。ところがその感覚が消えてしまうんです。自分の足だと思っていたものが消えるというのはどういうことかというと、感覚が完全に逆転してしまって、異物になるんですよ。

 

古館 文字通り、自分から切り離されてしまうんだ。

 

養老 それで患者さんはとんでもないことを言いだすんです。「俺のベッドに解剖用の標本の足を入れたのは誰だ?」とか、「なんで兄貴の足がこんなところに転がっているんだ」とかね。治療に当たっている整形外科の医者はそういうことに詳しくないから、びっくりしてすぐ精神科の医者を呼びに行ったりするんだけど、やっぱりそれは精神的な問題ではなくて、実際にそういう感覚になっちゃうんですね。

 それでもしばらくすると、手術でつなげた神経の機能がだんだん回復していって、最終的には「足」をちゃんと感じるようになって動くようになる。動くようにはなるんだけれど、それまでと違って動きもぎこちないし歩き方も不自然になってるんです。そこで医者がどうしたかというと、スイミングをやれ、泳いでリハビリしろと言う。で、患者がプールに行くと、前もって医者に言い含められていた療法士たちの手で、彼はいきなりプールに突き落とされるんです。急に水の中に落っこちると、誰だって無我夢中で体を動かすじゃないですか。その瞬間に、その患者は完全に治った、という話なんです。

 

古館 すごい話ですねぇ。

 

養老 だから要するに「治る」っていうのは、やっぱり全身なんですよ。身体の一部が故障して、それが自分のものとして再び戻るためには、部分ではなく全部が連携してすっかり自分のものになるというある瞬間が必要なわけです。そうなるまでには相当なリハビリも必要なんですが、それでいちばん効果があったのは音楽療法だという話です。だいたい音楽っていつも動いていますよね。だから音楽を聴きながらやるのがいちばんいいんだそうです。

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 ・・・一番の原則は、我々の身体について我々が知っていることは、脳の中で起こっていることだけだということなんです。・・・

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 ・・・歯から脳に行っている神経線維を麻酔してやると、痛くなくなるでしょう。痛くなるどころじゃなくて、歯が存在しなくなってしまうじゃないですか。その歯を触っても何も感じないんだから。たとえば、自分が、ここが痒いとか言っている。それは、「ここ」が痒いんじゃなくて、脳の中の「ここ」に相当する部分に何か起こっているということを脳が把握して、意識が把握しているということなんです。「ここ」に何が起こっているかは、じつは関係ない。極端に言えば、脳の中のその部分を刺激したら、虫歯なんかなくても「痒い」と感じるわけですからね。

 それをもっと一般化して言うと、我々が知っていることは、自分の脳の中だけなんですよ。ものが見えているとか言っているけど、そうじゃない。見えているような刺激を与えれば、真っ暗闇だって星が見える。マンガによくあるじゃないですか、頭をぶん殴られて星がチカチカって。要するに、同じ刺激を入れてやればいいんです。我々が認識している世界自体が、完全にバーチャルなんです。我々が知っていることは、完全に脳の中で起こっていることだけ、初めから。それは身体のことについても同じなんです。

 

古館 ああ、なんか仏教的ですねぇ。「色即是空 空即是色」みたいだ。それは仏教なんかの、たとえば唯識哲学とか、ああいうものとの関係は……。

 

養老 やっぱり関係していますよ。そういうことを昔の人はよくわかっているんです。