僕たちはなぜ取材するのか

僕たちはなぜ取材するのか

 ノンフィクションやドキュメンタリーの表現者を、取材へと突き動かすものは何か?というお話です。

 みなさん熱量がすごい・・・逆にそこまでだからこそか・・・と感じました。

 

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藤井 徹底的に取材現場に通う・・・そうした取材方法をどこで身につけたのですか?

中原 もともと僕は料理雑誌が好きで、料理のことを取材して書きたかった。駆け出しのライターのときに、ある出版社の編集者が僕にこう言いました。

「食べ物のことをやりたいのだったら、とにかく銀座を知らないと話にならない」

 ・・・とは言っても、なにをすればいいのかわからない。で、その編集者がなにをしたかというと、僕が編集部に顔を出すたびに、三〇〇〇円をくれるのです。そして、「この金額で、銀座の寿司屋を片っ端から食ってこい」と命令するんですね。

藤井 三〇〇〇円あれば銀座で寿司を食える、ということですか?

中原 それがポイントで、三〇〇〇円では銀座で寿司など食えない。けれど、一九九〇年代の銀座の寿司屋にはまだ「お好み」という制度がありました。「お好み」とは、注文した数だけ勘定を払うという、昔ながらの商売です。いまは「おまかせ」と言って、すべて店主にまかせる寿司屋が多いのですが、昔は違いました。

藤井 「お好み」なら、三〇〇〇円で食えるということか……。

中原 そうです、たいていの寿司屋なら。だから、片っ端から寿司屋をまわるんです。ちなみに「すきやばし次郎」は、食べさせてもらえませんでしたけれど。

 その編集者は、「銀座は一七時に暖簾がかかるから、開店直後に行きなさい」と言いました。ですから、一七時に店の暖簾をくぐって、カウンターに座るなり「三〇〇〇円でお願いできますか」って切り出すんです。

 三〇〇〇円だと、だいたい握りが七貫と巻物を一本食べさせてくれるのですが、そうやって食べ歩いているうちに、・・・各店の違いがわかるようになってきたのです。この寿司屋まわりを、約一年にわたり、月に一~二回ほどさせられました。

藤井 取材の入門編としては、とてもわかりやすい。でも、度胸がいるでしょう?

中原 はい。断られる店もありました。・・・

 ・・・僕の風体もあったと思います。だって、二〇歳そこそこですよ。・・・そんな人が来る街じゃないんですよ。銀座は。いまでも、受け入れてくれた店とそうでない店を明確に覚えています。

 ・・・

 ・・・編集長には「グルメライターにはなるな。ジャーナリストになれ」と言われました。つまり、自分の主観だけで、おしかった、マズかったと評論するつまらないライターにはなるな、と。店の主人に「大間の鮪」と出されたら、まずはそれが本当に大間の鮪かどうか、河岸の仕入れ先まで行って調べろ。店の主人がもっとも見せたくない、店のバックヤードを取材しろというのです。

藤井 含蓄にとんだ、粋な話だなあ。

中原 いまは、こんな粋なことをする編集者はいません。ネットを含め、情報だけなら取材しなくても検索すれば済む時代です。けれども、ノンフィクションとして店や料理人を書くということは、「情報」ではなく、感情のある生身の「人間」と繋がらなければ書けない。

 そういう意味でも、取材する側の僕らが取材対象者の料理人に「こいつはやるな」と思わせないと、まともな取材はできない。近藤さんの取材のときに、河岸に通おうと思ったのも、この体験があったからでした。

 ・・・

藤井 一定の分量を書くためには、かなりの取材をして、さまざまな周辺事情も書いていかなければならない。近藤さんが扱う食材の産地を、中原さんは取材者として一緒に訪れている。・・・取材中は、彼の行動のすべてを、爪の先まで観察したいということですよね。

中原 そうですね。極端にいうと、近藤さんの天ぷらに興味があるのではなく、近藤文夫に興味がある。だから、僕は取材をする。

 ・・・たとえば、近藤さんが山の上ホテルから独立をするきっかけになったのは・・・写真家の土門拳さんの影響もある。・・・

 ・・・近藤さんの揚げたハゼの天ぷらを食べて、よほど気に入ったのか、三日連続で店に来たそうなんです。・・・

 ・・・後日、近藤さんの元に「味」と書かれた色紙が届くのです。送り主を見ると土門拳。・・・普通の人ならそれで「うれしかった」で終わりです。

 けれど、近藤さんは、この色紙で人生の方向性が変わったと断言されるんです。当時、近藤さんは先に書いた原価の問題などから、ホテルを退職し、独立しようと思案していた。一介の雇われ職人として天ぷらを揚げることに限界を感じていたんです。この頃、自分はなんのために天ぷらを揚げるのか、と自問自答していたと言います。そこに「味」の色紙が届く。

 あるとき、その「味」という文字を眺めていた近藤さんは、心がざわつき、その場に突っ伏してしまった。そして、こう思ったそうです。「そうか、味という字は、口に未来の『未』と書く。食べて、単においしいではなく、未来に残るような『感動』を与えるような味を追求しないといけないのだ」と。

 こうして、近藤さんの生涯のテーマである「感動」という境地が形成され、翌年、ホテルを辞めて自分の店を銀座に出す「賭け」に出るのです。・・・

 このエピソードを聞いたときに、こう思いました。つまり、土門さんは近藤さんの悩みを吹っ切るために色紙を贈っているとは思えない。にもかかわらず、近藤さんは、この土門さんとの出会いによって本当に人生が変わってしまう。つまり、名料理人というのは、自分でただただ修業をして、ただ地位を築いていくのではなく、その時代を生きたジャンルの異なる名士によって、時代の先端へと引き上げられてゆく。人間が人間との交わりによって、ひとつの時代は作られてゆくのだと痛感しました。

 もちろん、土門さんが一方的に置いていった「気」のようなものを、ものすごい想像力で解釈している近藤さんもすごい。この台本のない、けれども、まるでなにか別の力がふたりを結びつけているようなエピソードに、ノンフィクションの堪らない魅力を感じたのです。