晴れの日散歩

晴れの日散歩

 角田さんのエッセイ、面白かったです。

 加齢による変化あれこれ・・・の話が印象に残ったのは、心当たりがあるからですね(笑)

 

P85

 ブティックの全身鏡は細長く見えるものだと、一昔前、まことしやかに言われていた。・・・その真偽を知らないままに時間がたち、私は今では何を買うにも試着をしなくなったので、今現在のブティック鏡事情について何もわからなくなってしまった。

 最近になって、よくそのことを思い出す。「いや、あれは鏡のせいではなくて、私自身の視覚マジックだったのではないか」などと思う。・・・

 そんなことを思うようになったのは、自分で鏡を見るとき、無意識に視覚マジックを駆使していることに気づいてしまったせいだ。

 四十代あたりから加齢がどんどん外見に出るようになる。・・・ずぼら大臣(私)は、いっさいなんの手も打たない。しみもしわも白髪もくすみも、ぜんぶ野放し。そのかわり、視覚マジックを使うのである。

 鏡を見るとき、「はい、鏡を見ますよ!」と号令をかける。同時に「見たくないものは見えません!」と自己暗示もかけている。そうしてから見る鏡には、三十代のときとほとんど変わらない自分が映っている。しみもしわもクマもくすみも、マジックによって見えなくなっている。だから私が思い浮かべる私は、三十代のときとあんまり変わっていない。精神的にはもっと変わっていないから、案外かんたんに、外見すら変わっていないと信じてしまえる。

 おそろしいのは、この視覚マジックをかけずに自身の姿を直視してしまうこと。ぼうっと眺めていたショーウインドウや電車の窓ガラスに、知らないおばさんが映っているなあと眺めていて、「私ではないか!」と気づいたときのショック。・・・心の準備がないときに自分の姿を見せるなよ、と思う。そして気づいたのだ、心の準備とはすなわち、視覚マジックだ、と。

 ・・・このマジックがあれば、あと何年かは現実の私を見ずにいられるだろうけれど、その後、玉手箱を開けた浦島太郎状態になるのがいちばんこわいなあ。

 

P88

 忘れてしまったら・・・大惨事を招きかねなくなったのは、この数年のこと。加齢とともに記憶力も鈍麻してきたのだろう。酒の席でのこととなると九割がた忘れ去る。とはいっても、忘れて困るのは小説やエッセイのことではない。約束や住所や地図や、教えてもらった何かの手順などは、やはり書きつけておかないと忘れる。忘れて、自分が困る。

 ・・・

 このメモがじつにおもしろい。だって忘れまいとしてメモしているのに、やっぱり九割がた、なんのメモか忘れているのだ。何月何日に会う、とか、この人に何を送る、というような約束はたいてい覚えている。それから、推測できるものもある。「チョコレート(メーカー名)」みたいなメモは、飲んでいたバーで出てきたチョコレートがあまりにもおいしかったので、どこの製品か訊いたのだ。映画のタイトル的なものは、その場で勧められたものをメモしたのだろう。

 思い出せないものは、コンピュータで検索してみる。おもしろいことに、たいていわかる。四ツ谷にある洋食屋だったり、山形にあるカレー屋だったり、福岡にある居酒屋だったりする。それから勧められた本のタイトル、ミュージシャンの名。

 だれがなぜ、どんな話の流れで勧めてくれたのか、ということもまた、思い出せないのだが、メモアプリには書きこんだ日時が記される。この日にちを過去のカレンダーで調べてみる。私のカレンダーにはすべての用件が書かれているので、その日にどこでだれと会っていたかがわかる。この「だれ」と、というのが思い出されると、きれいさっぱり消えていた記憶が、色鮮やかにするするとよみがえってくる。私がここに座っていてその人は斜め向かいで、テーブルにはやけに揚げものばかり並んでいて、そうそうワインの話になって、ワインがおいしいビストロがあるとその人が言って……という具合に。私という人間内の、ささやかなるミステリー解明である。

 しかしどうしてもわからないものがある。「たかたのおそうじおばさん」というメモがなんなのか、私はこの三年くらい、ずっと考えたり検索したりしつつ、謎のまま抱えている。

 

P94

 公言したりはしないし、もしかして意識していない場合もあるけれど、人にはだれでも、自分内優先順位がある。私の場合はおそらく「面倒ではないこと」の優先順位が高い。この映画、すごーく見たいと思っても、上映している映画館が面倒な場所にあると見にいかない。・・・

 私がひそかにおそれているのは、「おいしいもの」を優先順位のいちばん上に入れている人たちだ。程度の差こそあれ、私の友人には案外多い。この人たちは、どんな面倒な場所でも、おいしいものがあると聞くと出向いていく。・・・

 もちろん、私だっておいしいものが好きだ。おいしいものだけ食べていたいと思う。けれどそれくらいでは、優先順位は低いほうに分類されてしまう。

 ある遠方の地で、友人数人と落ち合った。いっしょに夕食を食べ、見知らぬ町でバーをさがして入り、その土地のおいしいものを言い合った。「おいしいもの」の優先順位がすこぶる高いAさんが、「ものすごくおいしい豆腐を食べさせる店」の話をはじめた。そこは駅から遠く、バスも電車も通っていないので、タクシーでいかなければならないという。早朝に店ははじまるが、豆腐が売り切れ次第店は閉まる。だから七時くらいにいくといいのだが、それでも並ぶ場合がある。

 その話を聞いて私がまず思ったのは「面倒だ……」ということ。豆腐は好きだが、タクシーも面倒、並ぶのも面倒。しかしAさんはその豆腐がどのくらいおいしいかと滔々と話し出した。聞いていると、本当に魅惑的。この町にまたくるのはいつになるかわからないし、そんなおいしいものはやはり食べておいたほうがいいのではないか。

 今日は遅くまで飲んでいるし(その時点でもう夜の十二時過ぎ)、明日早く起きられないだろうから、明後日いこうかな。ついに私は言った。面倒を優先する人間が、おいしいもの優先者を覆したのである。するとAさんはぱちぱちと携帯電話をいじり、「明後日日曜は定休日よ。いくなら明日いかなきゃ」と言う。顔と目がきらきら輝いている。おいしいもの優先者は、他人がおいしいものを食べると思っただけでハイになるようだ。私は腕時計を見、「じゃあやっぱりやめる」と言った。二日酔いで寝不足で七時前にタクシーに乗るなんて面倒なこと、できるはずがないと判断したのである。でもきっとAさんはいくのだろう。明日、寝不足でも二日酔いでもいくのだろう。

 おいしいものの優先順位が高い人が私にはおそろしい。でもきっと、そういう人たちにしたら、面倒という理由だけであれこれ切り捨てる私がおそろしいだろうなあ。

 だれかと交際したりともに暮らしたりする場合、だいじなのは、ほかのどんな相性より、この優先順位の近似ではないかとひそかに私は思っている。