THIS IS JAPAN

THIS IS JAPAN :英国保育士が見た日本 (新潮文庫 ふ 57-1)

 だいぶ前に読んで、下書きしたままアップしそびれていました・・・

 ブレイディみかこさんの本、興味深い内容でした。

 

P149

 わたしが保育士という仕事に興味を持った時期は、ちょうど労働党政権が大規模な保育士のリクルートをおこなっていた時期と重なっていた。あのころは全国の自治体が、どうやったら保育士になれるのかについての情報を提供し、実際に地域で保育士として働いている人々や、保育士になってからキャリアアップした人々の話を聞くことができる3日間の無料コースを開催していた。

 そのコースでわたしが話を聞いた保育士の一人は、ちょっとした地元の有名人だった。「ブライトンのモリッシー」と呼ばれる彼女は、黒髪をリーゼントにした男装の麗人で、LGBTコミュニティのパブやクラブでギターを抱えてよく歌っているミュージシャンだった。彼女は音楽活動をする傍ら、恋人の女性と二人で保育所を経営していると言っていた。

「夏のよく晴れた日に、赤いダブルデッカーバスを借り切って、屋根のない2階で大声で子供たちと歌いながら海岸沿いの道を走っているとき、牧場の真ん中にパラシュートを広げてみんなで潜り込んでお化けごっこをして、出て来たらいつの間にか羊たちに囲まれているとき、ふっとこんなにクレイジーな仕事はほかにはないだろうって思う。一日中オフィスに座っている人たちには、きっとそんなことを思う瞬間はない。それだけでも、保育はクールな仕事だと思う」

 そう彼女が言ったとき、脇に座っていたジャマイカ系の中年女性が目を輝かせながら髪につけたビーズをジャラジャラさせて頷いた。その隣にいた長身のスキンヘッドの男性もにっこり口角を上げて笑っていた。前者は7人の子供を育て上げたお母さんで、後者は障害を持つ子供を数年前に亡くしたエンジニアのお父さんだった。わたし自身も含め、そこにいた人々は、学校を卒業してそのまま保育士になる若い人たちとはまったく違う、普通はあんまり保育士にはなりそうもない年齢や経歴の人々だった。

 だからわたしたちは保育士の賃金が低いことや待遇面の悪さもよく知っていたし、そういうことを優先するのならエンジニアとか翻訳者(私のこと)の仕事をそのままやっていたほうが良かったのである。だが、なぜかそれでもわたしたちは子供たちと働きたいと思ったのだ。そしてジャマイカ系のお母さんとスキンヘッドのお父さんとわたしは、同じコースで資格を取って保育士になったのである。そうさせるだけの理念とエネルギーが労働党政権時代の英国の保育制度にはあったのだと思う。

 保育の仕事は政治のあり方次第でクールにも、アンクールにもなる。幼児を大人の経済活動の邪魔になる厄介者と見なす政治は、保育士をクールな職業にはできない。わたしたちの仕事をクールにできるのは、人間の脳がもっとも成長する重要な数年間を生きている小さな人々として幼児を認識し、社会全体で彼らを支え、国の将来を担う人たちのポテンシャルを最大限に伸ばすために投資する政治だ。

 未来の世代のために借金を残すべきではないと言っても、その未来の世代が存在しなくなったら国は滅亡する。日本の反緊縮運動は保育園からはじめよう。