こちらも横田さんのお話。印象的でした。
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横田 まあ、つまるところ心なんです、みんなね。でも、心という言葉は、お経や語録にいろんな意味で使われているから、わからなくなってしまうんですね。仏心とか言うけれど、心が仏だって言われても、どの心が仏なんだって言いたくなるでしょう。
小出 言いたくなります(笑)。
横田 そうでしょう(笑)。じゃあ、たとえば、ここにコップ一杯の水があるとします。この水を乾いた植木鉢にかけてやれば、これは慈悲になるでしょう。でもこうして話をしている相手にぶっかけたら、これは争いの種になってしまうでしょう。それで、我々はその現象だけを見て、こっちは慈悲の水、こっちは争いの水って、こう思ってしまう。でも冷静に見てみれば水の本質はまったく変わっていない、それがわかれば、もう問題はなくなってしまうんです。
小出 ああ……。
横田 我々の心には、瞬間ごとにいろんな感情が湧いてきます。でも感情をぜんぶ捨ててしまったら仏になれるのかというと、そんなことはありません。ぶっかけられて嫌な思いをしたからと言って、もう水なんかいらない、というわけにはいかないわけでしょう。ただ、それが水だったということに気がつけばいいわけです。
それと同じで、好きだ嫌いだっていうさまざまな感情も、よくよく見てみれば、みな同じ仏心から出てきたものだったって。それがわかれば、問題はなくなってきます。・・・