つづきです

ダライ・ラマに恋して (幻冬舎文庫)

きのうの記事の、ダライ・ラマ法王のお話のつづきです。

P311
 こんなに徳の高いダライ・ラマ法王は、少しも死を恐れていないんじゃないだろうかと思ってお聞きしてみる。
「あの、法王は、死ぬことは怖いですか?」
 私の質問を聞いて、法王はちょっと思いを巡らせるような顔になり、それからゆっくり答えてくださる。
「私は仏教僧であり、仏の教えの実践者でもあります。死は、私たちの人生の一部です。私たちが生きている以上、当然、死はやってきます。死が訪れたとき、もしあなたの人生が有意義なものであったなら、死を恐れる必要は全くありません。
 しかし、もしあなたが人生を無駄にし、他を傷つけるようなことをしたならば、死は恐ろしく耐えがたいものになるでしょう。生きとし生けるものを思いやり、人生を全うすることは、仏教では来世への正しい準備だと見なします。ですから、死を恐れる理由はまったくありません。
 私の人生も、多少は他の人々のために役立ったのではと思っています。ですから、そんなに死ぬことを怖れていません。おそらく、実際に死ぬときには、少しは怖いと思いますけどね」
 法王はそうおっしゃると、ホッホッホと例の調子で笑われた。法王は謙遜してそうおっしゃったけれど、ほんとうは死など絶対に恐れていないと私は思った。これほどまでに他の人のために尽くして生きたきた方が、何を恐れるというのだろう。
「あの、私は慈悲についてよく考えることがあるのですが、慈悲とはどのようなものでしょうか?」
 私がそうお聞きすると、法王はちょっと考えてからおっしゃった。
「慈悲ですか。最も分かりやすいのは、母親がふだん子どもに見せる優しい感情かと思います。母親が我が子を守るために、育てるために、苦労をかえりみず、すべてを犠牲にする態度、それが慈悲です。
 ・・・
 心の底から関心をよせること、心の底から優しい心が湧き上がること、それが慈悲です。仏教の経典には『すべての生きとし生けるものを、母親と見なす』と、よく書かれています。たとえば、日本人がよく食べる魚、小さな甲殻類、魚介類、そして鳥や羊、ヤギや牛、チベット人が食べるヤク、こういった衆生、すべての生きとし生けるものを、チベットでは母親のような存在と見なすのです。
 私たちは、すべての生きとし生けるものに、関心と慈悲の心を持たなければなりません。私は、動物への思いやりは、とても大切なことだと思っています。もし、あなたが動物に対して思いやりの心を持っていれば、兄弟である人間への慈悲の心も、持つことができるでしょう。・・・」
 ・・・
「あの、もうひとつだけ、よろしいですか?」・・・
「どうぞ、いいですよ」・・・
「法王は今、幸せですか?」・・・
「そう思いますよ」
 と言い、ホッホッホと愉快そうに笑われ、話を続けられた。
「もちろん、私の人生は楽なものではありませんでした。私の人生は、苦難の連続だったともいえます。ですが、一仏教僧として、私の考え方は常に中立です。
 大事なことは、どんなときでも自分自身と向き合い、自分の潜在的な可能性を引き出そうとすることです。どれだけ辛い状況でも、悲観的な環境にあっても、心の平安を保つことはできます。
 逆に、どれだけ素晴らしい物に囲まれ、たくさんの友だちや財産、権力など、あらゆるものを持っていたとしても、精神的に満たされていなければ、その人は幸せだとはいえないでしょう。その人には、心の平安がないわけですから。
 仏教僧として、また仏の教えを実践する者として、私の心はかなり落ち着いているといえます。いつもではありませんがね」
 そう言って、法王はホッホと笑われ、
「ときどきは、悩んだりもしますよ」
 と付け加え、ハッハッハッハと豪快にお笑いになった。