こころとお話のゆくえ

こころとお話のゆくえ (河出文庫)

 読み進むうちに、なんか読んだことある気がする・・・と思ったら、去年読んでました(;'∀')

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 数年前ならともかく、1年前って・・・(笑)。

 でも今回は違うところが印象に残ったので書きとめておきます。

 

P90

 最近、鶴岡市を訪れ、文化に関心の高い鶴岡市長さんのはからいで、史跡の庄内藩校「致道館」を見学することができた。・・・

 致道館では庄内藩の子弟が学問をするのだが、その趣意書(被仰出書)を見ると、人間には「天性、得手不得手」がある。そして「天性の大なる者は大成し、小なる者は小成」するので、個々の天性を見抜いて指導することが大切だと書いてある。

 これを見て、「アレッ」と思ったのは、今、日本の教育界で大切な課題となっている「個性の尊重」ということが思い浮かんだからである。

 そのときにいただいた、社団法人庄内文化財保存会『史跡庄内藩校 致道館』を帰宅後に読むと、次のようなことがわかった。入学する者は士分以上の子弟だが、それ以下の者でも能力のある者は特別に入学させる。入学後は成績次第で年齢に関係なく進級させる(これはトビ級ではないか!)。

 それに次のようなこともある。入学したての少年たちの指導者に対する注意として、「学校の儀は、少年輩の遊び所」だから、「何事も寛大に取扱い」、子どもたちが退屈しないように「面白く存じ業を教え遊ばせる」ように努力するべきである、というのである。これは個性を伸ばそうとする初等教育の方法として最高のことではないだろうか。

 上級者はどうなるのだろう。最上級生は「舎生」と呼ばれ、今日の大学院に相当するだろう。このような生徒(と言っても立派な成人である)は、一人一室を与えられ、「完全な自発学修である。すべての雑用から離れ各室において修学に専念」し、質問があるときのみ指導者に教えを乞うシステムであった。面白いのは、宿泊希望者は「勝手次第」というところ。強制的でないところがよい。学風は荻生徂徠の教えによっているのだが、その教えに従って、指導者はあくまでも学生の自発性を尊び、自説を押しつけることのないように注意した。教えるにしても「人ニ教ヘラレアル理屈ハ皆ツケヤキバナリ」と心得て、教えすぎにならぬようにしなくてはならない。「彼ヨリ求ムル心ナキニ、此方ヨリ説カントスルハ説クニアラズ売ルナリ。売ラントスル念アリテハ、皆己ガ為ヲ思フニテ彼ヲ益スルコトニハナラヌコトナリ」。こんなものを読むと、日本の教授は自説を「売ラントスル念」が強すぎないか、反省すべきであると思う。ともかく、致道館の教育方針は、現代の大学院においても理想的と言っていいだろう。

 ・・・

 ここで考えねばならぬことは、致道館で言われる「天性」と、欧米人の言う「個性」は同じものか、かつて、これほど能力差を肯定していた日本人がなぜ、絶対平等主義になったのかの二点である。これは時間をかけてじっくり考えるべき問題である。