「ただ、それだけ」の美しさ

ありのままがあるところ

 この辺りも印象に残りました。

 

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 本能は生存することを最も重視する。それに従えば、まず自分の身が危険にさらされないような生き方を選ぶことになる。言い方は悪いが、彼らは自分さえよければ他の人はどうでもいい。言葉の表面だけを受け取るとエゴイスティックに聞こえるかもしれない。けれども違った表現をすればこうなる。自分の関心だけにひたすら向かう。そして削る、縫う、丸める、描く、ただそれだけに終始する。「ただ、それだけ」という非常に美しい行為そのものを独占している。他者からの価値づけに興味を示さないという感じである。

 ・・・健常者は「ただ、それだけ」に価値を見出せない病を抱えている。それを悩んだところで抱えてしまった欲望を完全に捨て去ることはできない。そうであるならば、「それこそが私たちの能力なのだ」と自覚して、進化することを良しとした生き方を選べばいい。

 起きている状況を把握し、「何をするべきなのか」を判断し自分の欲望を抑制するところは、健常者の知恵の特徴である。がしかし、社会を一瞬忘れて、心底自分が欲していることを中心において生きたいと、無意識に満足感を求めているところもある。当然、私たちの本能にしても完全に失われたわけではない。知識や情報が覆いかぶさって埋もれているだけだと自覚すれば、それらを取り去り、かき分けて、本能的な振る舞いに立ち返っていく道筋を知恵によって見つけられるはずだろう。

 これまでノーマルな社会はとにかく進歩することばかりを重んじてきた。その恩恵もあるが同時に不必要な知識や情報を増やしてきたのであれば、少しずつ退いてみようと試みる。それも健常者の得意な新たなことへの挑戦ではないだろうか。

 同じ人間ではあっても、それぞれが生きる上での価値観が違うのだとしたら違いを尊重するほかない。これは繰り返し言っておきたいのだが、支援や教育という言葉で私たちが利用者に能力の向上を促そうとして接する時、勝手に彼らのテリトリーに侵入していることになっている場合が多い。・・・

 しかし、それは彼らのしきたりを私たちのルールに引き込み、変えさせているように見える。彼らのもともとのしきたりはどこへ行ったのだろうか?と気にする人はあまりに少ない。

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 たとえば母親が亡くなって葬式から帰ってきた男性の利用者に、職員は心配して「大変だったね。どういうことがあった?」と聞く。すると「ご飯をいっぱい食べてきた」と答える。彼は自分にとってリアルに感じたことを言っただけなのだ。それに本人が「ご飯を食べられてよかった」のであれば、「それはよかったね」と言えばいいのに、母親が死んだことについて、葬式での振る舞いや心境まで介入しようとして、「悲しいことなんだよ」と教えようとしたりする。それは、その人を尊重することだろうか。彼の心境を想像することは意味のあることだが、そこは侵入してはいけないのだ。

 また、ある人は自らの死が間近に迫ってもいつもと変わらず漫画を読み、亡くなる前日に「今日のご飯はなに?」と聞いてくる。そしてジタバタすることなく実に潔く死んでいく。今まで生きてきた自分、これから生きていくであろう自分を思い浮かべず、現実だけを直視しているのだろうか? 

 死を理解しない。字が読めない。意思表明が困難な人々。世の中を生きていく上では不自由なことが多いはずでありながら、彼らはどうしてあんなにも豊かな表情を見せ、自信ありげな顔をしているのか。

 

P148

 利用者の足並みが揃わず、頑なにズレる音を特徴とする打楽器を主体にしたottoの結成は二〇〇一年。コーラスというよりは叫びに近いヴォイスグループのorabuが結成されたのは、その二年後のことだ。

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 orabuで大事にしていることは、懸命になること。成功をあきらめること。緻密に計算しないこと。言い訳を考えないこと。周りを見ないこと。自分自身のためだけに目的を持つことだ。利用者を見ていてわかったのは、彼らは楽しいから木を削る。楽しいから絵を描く。楽しいから縫う。楽しいから積み上げる。楽しいから歌う。楽しいから土を丸める。楽しいから固める。そう、何事も「楽しいから」なのだ。それを見習いたい。

 互いの多様性を認めるならば、「こうでなければいけない」という個人の価値観や考えは、自分自身には向けても他人に押し付ける必要はなくなる。義務感から解放され、健常者が自分をさらけ出すことで開放感を味わい、思いっきり演奏することを楽しむ。こちらが演奏で挑めば彼らも真っ向あら向かってくれる。そこで生じる喜びは私たちとは違うかもしれない。それでも喜びは共有できる。

 ズレている。音程が狂っている。調子外れの物にならないはずの音たちが、きちんとしておらず、うまくもないが圧倒的に立ち上がってくる。これは音楽なのか?と問われたら音だと答える。その場限りの音遊びだ。スーパー素人楽団otto&orabuは、「共鳴する不揃いな音」として、結成からあっという間に二〇年が過ぎた。

 

P171

 福祉と縁のない異業種から来た人が、予測もしていなかったはずの、しかも未経験のものづくりや飲食の仕事をする。自分でも気づかなかった才能を開花させていく。それが障がい者のサポートや才能の発掘とは別のもうひとつの私の大切な仕事でもある。それぞれ持ち前の能力は違うから向かう先は違えども、自分の能力に適度に適切なものを試してみようというのが、しょうぶ学園のものづくりに対する考えである。それは何も利用者だけではなく、職員にも当てはまることだ。

 私たちの内に隠れている能力は相当あるのだと思う。結局は、誰しも才能を持っているということだ。ただ、それに気づくチャンスに恵まれないだけなのだ。

 他人と比較して「あの人に比べて私は……」と勝手に評価してしまい、自分のできることに向ける目を曇らせてしまう。周りが気になって、優劣を比較できる知的な能力があるがゆえに自分の秘めている能力を覆ってしまうのだろう。

 障がい者と言われようと健常者と言われようと、やはり手段が揃えば人は勝手に走り出す。職員の場合は、それが業務命令だったり、「やってみたい」という意欲と「できるだろうか」というプレッシャーとの間で揺れる気持ちであったりするだろう。動機はどうであれ、ともかく足が向いて、手が動いて、心が動いたら、やってみたらできるようになってしまうのだ。不完全で思うようにはいかないけれど、そこには自分だけの小さな満足がある。それが隠れていた才能なのだ。