おむすびのにぎりかた

おむすびのにぎりかた (手売りブックス)

 「シンプルで安くて、だれにでも作れるおむすび。なのに、口にすると不思議な満足感が―。そこに秘められた〝おむすびの心〟を探りたい。」ということで、日本各地で暮らすさまざまな人たちがにぎるおむすびが紹介されています。

 いろんな方のいろんな暮らし、味わい深かったです。

 

こちらは酒造り職人の方。

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 田中勝巳さんは、先代の次男として生まれました。・・・今は故郷に戻り、「大信州」の酒造りの責任者として、また杜氏として活躍しています。・・・田中さんは毎年十月~四月までの七カ月間、長野県豊野町の蔵に泊まり込み、蔵人七人で酒造りに没頭します。伺ったのは一月。豊野町の蔵で酒造りに奮闘している真っ最中でした。

「日本酒の元となるもろみは、人間の気持ちや行動を把握しています。従業員以外の人が熟成室に入っただけでも、熟成状態が変わってしまいます。正月に従業員を休ませただけで、もろみの熟成が止まってしまったほど。もろみはごまかしがきかないのです」と田中さんは語ります。

「もろみの熟成室を厳しく管理し、一定温度にしていても、外気温が一度でも違うともろみに気づかれて、熟成の状態が変化してしまいます。不思議ですが、もろみは身の回りの環境をすべて把握してしまうのです。ですから、人間も含めたすべての環境をととのえることに全力を注ぎます。機械に頼る他力本願ではダメ。自分たちにできる『もろみにプラスになること』を何でもやってみます。ときにはもろみに音楽を聴かせることもあるんですよ」

 蔵のあちこちの壁に、「愛・感謝」と書かれた貼り紙が貼ってあります。毎年、従業員全員でその貼り紙を手書きしています。どんなに忙しくても、この気持ちを忘れて仕事をしてはいけないという、もろみに対する愛情と敬意です。人の心の持ち方ひとつで日本酒の味が変わってしまうことを体感している人間だからこその行動。お客様には見えない部分ですが、これこそがモノ作りをする上で一番大切にしなければならないことだと思いました。

 さて、そんな田中さんが作ってくれたおむすびは、シンプルな「梅むすび」。

 炊きたてのあつあつごはんを、手のひらいっぱいにのせる田中さん。そこに梅干しをのせ、あとはとにかく豪快に、手早くにぎり上げました。力強いけれど、決して乱雑ではない。やさしく、それでいて大胆な手の動きに思わず見入ります。

 少し不格好、でもそんなところが何ともおいしそうな田中さんのおむすび。使っているのは米と塩、梅だけなのに、とても味わいがあります。もろみを育て、ずっと接している田中さんの手には、美味しくなる菌が宿っているのでしょうか。

 田中さんがもろみに心を配るように、おむすびを作る人の心が、そのまま「おいしさ」に反映されるのでしょう。しみじみおいしいと感じるおむすびでした。付け合わせの漬物は、蔵で漬けた野沢菜酒粕に漬けた瓜、野沢菜を粕で煮たものです。

 実はお話を伺った日の前夜、田中さんはおむすびをにぎる練習をしたのだそうです。

 それを見ていたほかの従業員も「面白そうだ」とみんながにぎり始め、楽しくて止まらなくなって、炊いたごはんは残らずおむすびに。結局、おむすびは全部、みんなのお腹に入ってしまいました。

「いつもごはんを炊くと三分の二は残ってしまうのに、昨晩はその三倍は食べました!」と、田中さんは嬉しそうに話してくれました。

 

 こちらはお蕎麦屋さん。

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 蕎麦屋「とりい」は長野県安曇野にある穂高神社の脇にあります。白壁と木造りの清楚なお店の引き戸を開けるとジャズがかかっていて、思い描いていた蕎麦屋とは違う、シックな雰囲気。店主である中村健太さんと、奥さまのマキアヤコさんが笑顔で出迎えてくれました。

 お話を聞くなかで面白かったのは、二人の「なりゆき」的な生き方です。

 中村さんは道楽で蕎麦打ちを楽しんでいましたが、たまたま見つけたこの物件を借りたあとに蕎麦屋をやろうと決めました。

 マキさんも何気なく始めた焼き菓子作りがきっかけで、今では自分のブランド菓子としてお店に置くようになりました。ともに目標があって進んでいったわけではなく、流れに任せてたどり着いたのがこのお店でした。

 以前は畑を借りて野菜を育て、自給自足的な生活をしたこともありましたが、それは食べていくために必要だったからで、思想を持って始めたわけではありません。「無一文でしかたなく」と笑いながら話す中村さん。

 はじめから「これをやりたい」と道を決めるのではなく、限られた環境や条件のなかで、いかに気もちよく暮らしていくか。それが結果的に「なりゆき」的な生き方につながったのでしょう。

 頭でっかちにならず、理由づけもしない。ただ目の前のことを一生懸命やる。そんな彼らの生き方はどこか軽やかで、伸び伸びとしているように思えました。

 ・・・

 外出するときに持っていく定番おむすびの具材は、梅+胡麻きゃらぶき、味噌などを、その日の気分でなりゆきで。近くの温泉や山登りなど、休みになると二人で好きなところに出かけておむすびを食べます。

 二人で山登りに行くと、自家製味噌を入れたおむすびに湯をかけて「お茶漬け」にして食べることも。素敵なアイディアです。

「行き当たりばったりなんです」と言いながら、二人はとても幸せそう。余計な力を入れずに生きる姿勢が、二人のおむすびにも表れています。