仕事が楽しくて仕方ない

農業フロンティア 越境するネクストファーマーズ (文春新書 1336)

 やりたいことがわからなかったのに、ワクワクして眠れなくなってしまうなんて・・・人生面白いです。

 

P123

 1993年、田中は東京の中野区で生まれ、練馬区で育った。子どもの頃から「なんでもいい」が口癖で、「特技も趣味もやりたいこともなくて、毎日友だちと楽しくすごせればいいじゃんっていう感じ」だった。・・・

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 田中にとって幸せとは「健康寿命を楽しく生きること」だった。今度は健康寿命を分解すると、社会人は人生の大半を仕事に費やしていることに気づいた。ということは「仕事が楽しくなかったら、健康寿命を楽しく過ごせない」。それなら、好きなことを仕事にするしかない。

 ここでまた立ち止まった。それまで「特技も趣味もやりたいこともない」という人生を過ごしてきたから、なにが好きなのかわからなかったのだ。しかし、家族との会話でハッと気づく。ずっと好きだったものがあった。それが、バラだった。

 きっかけは、田中の曾祖母だった。・・・曾祖母は無類のバラ好きで、ブローチやワンピースなどバラをモチーフにしたものを常に身に着けていた。・・・曾祖母のことが、田中は大好きだった。

 曾祖母の影響で、田中家は全員バラ好き。・・・家族旅行ではよくバラ園に行った。食卓でも「あそこのバラがキレイ」・・・とバラの話題が多かった。・・・あまりにも自然の成り行きだったから、「私はバラが好き」と強く自覚する機会もなかった。

 それを意識したのは、ある日の食事時。「最近聞いたんだけど、食べられるバラがあるんだって」と母親が言った。・・・

 ―食べられるバラか、食べてみたいな。ていうか、バラが食べられないって誰が決めたんだろう。これって固定観念じゃない?そうやって、私の人生、たった19年間で見たり聞いたりしたことですべてを判断してきた気がする。本当は見えるものも見えないようにしてたんだろうな……。

 ここから、目の前に立ち込めていた鈍色の霧が晴れるように、田中は解放される。

「自分はなにもできないって落ち込んでるけど、それも勝手に自分でつけたレッテルかもしれない。やってみたら、できるかもしれないのに!」

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 ここで、田中は大胆な決断を下す。「このまま大学にいてもなにも変わらない。1秒でも早くプロになりたい」という想いが湧き上がり、大学2年生の途中で退学届けを出したのだ。・・・他人と違う行動をして目立つことを恐れてきた田中の背中を押したのは、曾祖母の言葉だった。

「自分の人生は自分が主役だから、やりたいことをやりなさい」

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 田中は食用バラの生産者になるために、一歩を踏み出した。グーグルで検索してトップに表示された大阪の生産者に、「働かせてください」と連絡すると、すぐに許可を得た。・・・

 大阪に移り住んだ田中は、オーナーに手ほどきを受け、ゼロから食用バラの栽培を学んだ。・・・見ること、聞くことのすべてが新鮮だった。・・・

 ・・・農業は毎日似たような作業が続くが、田中は「毎日コツコツとなにかを続けること」が苦にならない性格だったから、農作業は「性に合ってるな」と感じた。なにより、「好きなバラに囲まれて一日が終わるなんて最高!」と思えたことが一番の収穫だった。

 しかし、研修は思わぬ形で終わりを告げる。ある日、「ルックスもバラの強みだから、たくさんの人に見て欲しい」と考えた田中がオーナーにインスタグラムへの投稿を提案すると、「農家はそんなチャラついたことはやらん!」と取りつくしまもなく拒否された。田中はオーナーがなぜ怒ったのか、インスタへの投稿がなぜダメなのかまったく理解できなかった。

 それ以来、「新しいものを取り入れていく姿勢がないと、バラの可能性が閉ざされちゃう。ここにいたら世界中に食用バラの良さを伝えることができなくなる」と危機感が募った。その時の心情を、こう明かす。

「農作業をしていると、どんどんバラへの愛情が深くなっていくんです。感覚としては保育園の先生のような感じで、それぐらいバラに思い入れがあったからこそ、このバラを世界中の人に知ってもらいたいという気持ちが日に日に増していって。バラって世界の誰もが知っている珍しいお花だと思うんですよ。だからこそ、見て楽しむ、香りを楽しむということ以外に、食べるという形で世界中にバラ好きを増やしたいという想いが募ったんです」

 間もなくして、田中は決意する。

「ここを辞めて、自分でやろう」

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 ・・・2015年9月、無農薬の食用バラを栽培する「Floweryフラアリー)」を設立した(2017年4月よりローズラボに)。・・・

 家族の支えもあり、田中の船出は順風満帆……とはいかなかった。ここから「地獄の日々」が幕を開ける。

 最初に植えたバラは・・・すくすくと育っていたのだが、しばらくするとどんどん元気がなくなり、ついに萎れ始めた。

 なんで?田中は焦った。手順に間違いはない。・・・考えられる限りの手を尽くした。それでもバラは・・・ほとんどすべて枯れた。目の前が真っ暗になった。

 しかし、多額の借金をして起業したのだから、・・・田中は損失を少しでもカバーするために、ひと通りの仕事を終えた後に居酒屋でアルバイトを始めた。その時のスケジュールは、過酷だ。早朝6時からバラの世話をして、昼過ぎには・・・売るものもないまま飲食店を中心に営業に回る。夜、・・・居酒屋でアルバイト。・・・睡眠時間はだいたい2,3時間だった。

 ・・・なにが全滅の原因だったのかわからないのは知識不足もあると自覚した田中は、改めて農業を学ぼうと・・・「アグリイノベーション大学校」に通い始めた。

 ・・・週末にまとめて学ぶカリキュラムだったので、週末は父親にバラの世話を任せて授業を優先した。

 ・・・田中はこの時期を「地獄の日々」と表現するが、投げ出したいと思ったことはなかったという。

「自分ひとりだったらとっくに諦めてたと思うんですけど、なにも持っていない私に優しく接してくれた人もいたし、つらい時期を一緒に耐えた社員もいたし、そういうことを考えたら、私はひとりじゃないと思えて、頑張れました」

 結果的に、この愚直な努力が地獄から抜け出す契機となる。ある時、アグリイノベーション大学校の講師が、当時、日本一の栽培面積でバラを育てていた大分のバラ農家を紹介してくれた。・・・

 アドバイスを受けて栽培方法を変えると、目に見えてバラが元気になった。これでようやく売り物ができる!・・・

 バラを収穫できるめどが立ったら、早急に売り先を確保する必要がある。・・・

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 1年目の売り上げは、150万円。この危機的状況から脱するために、2年目、田中は加工品の製造に乗り出した。・・・

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 田中は自信作のジャムを持って、恵比寿ガーデンプレイスで毎週日曜日に開催されるマルシェなどで販売を始めた。・・・多い時には1日に10万円を売り上げた。

 さらに、・・・「うちで買い取って店頭で置きます」と提案してくる小売店まで現れた。悪戦苦闘した食用バラの営業がウソのように、ジャムは飛ぶように売れていった。終わってみれば、2年目の売り上げは3000万円に達していた。・・・

 ・・・大きな手ごたえを得た田中は3年目、化粧品で勝負をかけた。

 ・・・田中はアトピー体質の敏感肌で、子どもの頃から肌になにかを塗る時には成分を確認する習慣がついていた。・・・自分と同じような敏感肌の人が安心して使える、無農薬栽培のバラを使った化粧品を作ろう、きっとニーズがあるはずだと考えたのだ。

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 ・・・化粧水の80%は水分でできているのだが、田中はそのすべてにローズ水を使うなど、天然の香りや美容成分を活かしたナチュラルな化粧品を作ることで、差別化を図った。

 2018年5月、バーニーズニューヨーク全店舗・・・で化粧品の先行発売をする機会を得た。・・・

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 先行販売を終えると、ローズラボの化粧品の評判は瞬く間に広がり、・・・3年目の売り上げは、1億円を超えた。

 ・・・今ではメディアに引っ張りだこの田中だが、1年目のことを忘れてはいない。・・・

 劣等感に苛まれていた19歳は、「幸せ」をつかむためにバラ農家の道を選んだ。そして今、「仕事が楽しくて仕方ない」という。

「未来のことを考えるとワクワクして、興奮しちゃって眠れないんですよ。こんな楽しい人生が待ってるなんて、思いもよらなかった」