フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記

フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記

 フジコ・ヘミングさんの絵がなんとも素敵で驚きました。

 この辺りは、絵日記からではなく、振り返ってのお話で、印象に残りました。

 

P84

 ようやくチャンスが回ってきたのは35歳のとき。レナード・バーンスタインニキータ・マガロフ、ブルーノ・マデルナという錚々たる楽家の推薦で、ウィーンのリサイタルが決まったのです。

 ウィーン中にポスターが貼られ、さあ、私もやっと世界のステージに立てる、という日の直前、私は風邪をこじらせて左耳の聴力を失いました。右耳の聴力は中耳炎と風邪をこじらせて16歳のとき既に失っていました。

 無理をして初日に臨んだものの、海鳴りのような音がずっと聞こえて惨憺たる結果。それ以降の演奏会はキャンセルに。一流のピアニストになる夢は砕け散りました。ああ、この世界に私の出番はない……。

 私はウィーンからストックホルムに移り住みました。父には会えなかったけれど、叔母にあたる人が国籍の手続きや病院の手配をしてくれました。治療を受けて、左耳の聴力は40パーセントくらい回復。それから試験を受けて、ピアノ教師のお免状をもらいました。

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 ストックホルムからドイツに戻って、ピアノを教えながらミュンヘンやハイデルベルグに移り住みました。ようやくお金を稼げるようになったのは40歳を過ぎてからです。

 何人もの人が、こんなところでピアノを教えたりしていないで、ニューヨークとかロンドンとか東京とか、そういうところで華々しくやればいいのに、といいました。あなたならできる!と。でも、私は捨てられた猫や犬たちを飼って、ピアノを教えながら暮らしていければいい。そう思っていました。

 飛べない赤ちゃん鳩を連れてきて、飼ったことがあります。その鳩は、家中糞だらけにしながら、私のピアノを聴いていました。ある日、ピアノを練習していたら、その鳩が踊り出したのです。私のピアノを聴いて、羽を広げて、コサックダンスみたいに踊り出した。鳩には私のピアノがわかるんだ!救われた気がしました。

 フランス人の医者の家の前に住んでいたとき、その家の男の子が道の往来の真ん中で踊り出したこともあります。私のピアノに合わせて。私は、弾くのをやめられなくなって、その子に合わせてずっと弾き続けました。

 泥沼の日々のなかで、私は信じていました。いつかはちゃんとなるだろう。私の出番は、たとえこの世にはなくても、天国にあるだろう。

 どんな悲劇も、なくしたものも、火事で焼けてしまったと思えば忘れられる。

「神様、どうぞお助けください」と祈りながら、私はピアノを弾き続けました。

 神様が私にご褒美をくださったのは60歳を過ぎてから。母が亡くなって、東京の家を手放すのがいやで実家に戻って、小さな演奏会に出演したり、ホーム・コンサートをすることがありました。それを聴いて感激したお客様が、私のドキュメンタリーを撮りたい、と仰ったのです。

 NHKで『フジコ~あるピアニストの軌跡~』というタイトルで放映されたのが1999年2月。私は一夜で「時の人」になりました。

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 私の十八番のようにいわれている「ラ・カンパネラ」は、初めてクロイツァーの演奏会に行ったとき、彼が弾いていた曲。すごく難しい曲です。集中していないと、音一つ外しただけでわかってしまう。

 みんな、小さい音のときはきれいに弾くけど、大きな音になるとダメね。大きな音ほど、美しい音色で弾かなくちゃならないのに。私は、割れるような音では絶対に弾きません。音には色があるから、美しい色の音で弾かなければいけないと思っています。

 ああいう、死に物狂いで弾かなくちゃいけない曲は、全部出ちゃう。その人の精神性と日常の暮らしぶりが。だから、少しくらい間違えてもそんなのは小さなことだと思います。

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 演奏会の前にいちばん大切なのは心を清らかにすること。演奏会の前の日には人に会わないし、ピアノもあまり弾きません。コーヒーもたばこもお酒もやらない。ただ、散歩には行く。そして、ぐっすり眠ります。

 コンディションを整えるのはけっこう大変です。一日サボると取り戻すのに二日かかるのがピアノ。だから毎日弾く。パリの家でも、東京の家でも、目を細めて私のピアノを聴いてくれるのは、猫たちなのです。

 

P109

 お金がない生活がけっこう長く続いたけど、人からだまし取ろうと思ったことは一度もありません。お金がないのも、けっこう楽しい。

 隣に住んでいる人の芝生が青いとか、いい車に乗っているとか、そんなのうらやましくもなんともない。自分は泥ハネした車に乗っていても、そんなのどうでもいいことじゃない。

 もともと学校があまり好きではなかったのも、違和感を感じていたからです。人はみんな違う。思想だって何だって。それを一緒にまとめなくちゃいけない、っていうことこそ、おかしなことです。私は見た目も人と違っていたし、何をしても目立ったので、とくにそう感じたのかもしれません。

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 この世界ではパリが好き。街並はきれいだし、人はあれこれ干渉しないし、自由に息ができる。小さなころから「祖国」がなかった私にとって、それがいちばん大事なことです。目が合うと、ニコッとしてくれるのもすごく好き。飼っている犬を連れて、カフェで人を見ながらお茶を飲むのは、好きな時間の一つです。

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 人生、矢の如し。歳を重ねるって「驚き、桃の木」あっという間。最近はとくに早くて、可愛がっていた猫の「ちょんちょん」が死んでから一年以上も経ったなんて信じられません。

 ちょんちょんが死んだとき、涙は出ませんでした。涙って涸れるのですよ。出し切ってしまうと。

 でも、歳を重ねても気持ちは16歳のまま、変わっていません。この歳で16歳の心を持ち続けるには、人の影響を受けないこと。クラス会になんて絶対行きません。みんな、自分がおばさんだって思って話をするでしょう。そういうのは絶対いや。

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 この絵日記を見返すたびに思い出します。

 暑くて、忙しくて、毎日小さなことにドキドキしたり、甘いお菓子に喜んだり、ピアノを弾きながら憂鬱になったり、ため息をついたり、いたずらして笑ったり、何でもないことに涙が出たりしたあの14歳の夏。

 描いている絵は、見ながら描いたものは一つもありません。表紙の絵も、空想。でも、三鷹台の家にはテニスコートがあって、伯母や母は時々テニスをしていました。いまでもテニスをしている母の大きな声が聞こえてきます。

 私はこの絵日記を見ながら、14歳のころ思い描いた夢や、いろいろな空想にふけるのが、いまも好きです。

 長生きして、これから世界がどうなるか、見てみたいとは思うけれど、巻き込まれたくはありません。

 私は自分の人生を歩いていくだけです。