著者がカメラマンとして取材に立ち会ったとき、8000m以上の世界で死を身近に感じているからなのか、竹内さんにまぶしいほどの「生」を感じ、「竹内さんの本を作ってみたい」と思ったことから生まれた本だそうです。
巻末の解説に
「パーティーでお世話になったサーダー(シェルパ頭)は、五回もエベレストに登頂した強者だった。けれどもサブのシェルパは、6000メートル以上は登れないのだという。何度もチャレンジしたが、高山病に勝てず下りてくる。同じシェルパ村に生まれ育っても、そこまで身体の違いがあるのだ。
空気が地上の三分の一以下になるデスゾーン、8000メートル超の山々は、訓練すれば登れるわけではないということがよくわかる。その十四座すべてを、竹内さんは登ったのである。」
とありました。
P83
竹内がテレビ番組でいじめについて語る姿を、私は画面を通して観た。・・・
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「逃げろ」
その言葉に、肩の力が抜けるような感覚を持った。強靭な男の口から出ただけに、説得力を持って響いた。
「いじめは雪崩と同じだと思う」
と続けた。だから、雪崩がいまにも起きそうだと「感知」した斜面で竹内は即座に立ち去ったのだ。つまり生きるために、逃げたのだ。
いじめには正直いって解決策はないと思っています。3分間、いじめについてメッセージを発するという内容だったのでお引き受けしたんです。・・・
いじめは雪崩と同じだと考えています。一人で立ち向かっていったって止められもしないし、流れも変えられない。だから、もう逃げろ、逃げてしまえと。私はそれしかないと思います。誰かに助けてもらうとか、誰かが何かしてくれるの待ってたって、解決なんかしないし、そのあいだに飲み込まれちゃったらどうなっちゃうかわからないから、とにかく逃げろ、逃げろ。
・・・野生動物じゃないですけど、脱兎のごとく逃げていくっていうのは、ある意味、正しいと思うんです。
要は、社会とか学校とかって、たとえてみれば8000メートルみたいなもので、その環境に適応できるものだけがそこで生き延びていくんだと思うんです。ある人には苦でないことが、ある人には恐ろしく順応できないことだったりする。その差は生まれ持ったものだと思いますよ。
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以前読んだ本にこういうことが書いてありました。江戸時代の朱子学に関してです。強力な理論体系ときわめて合理的な朱子学的な発想から、「人間はかくあるべし」とし、やればできるんだ、聖人になれるんだという教育があったそうです。けれど、幕府の正学となった荻生徂徠という人がそれを批判するわけです。
朱子学では、とにかくトレーニングをすることで人は優れた人間になれるんだっていうのです。だけど荻生徂徠は人間っていうのは、もともと持って生まれた特徴がある。豆は豆だし、米は米だ。豆と米とどっちがいいかではなくて、米は米としての役割があって、豆は豆としての役割があって、それを周りのものが、これは米として成長させよう、これは豆として成長させようとしていくことこそが、やっぱり人間が本当に成長していくことなのだと。全員を米にするとか、全員を豆にするというような朱子学全盛のときに彼が言うわけですよね。私もそうじゃないかなと思うんです。
P187
14座登頂後、竹内は週刊誌(「AERA」朝日新聞出版)で特集された。その中でサバイバル登山家の服部文祥が書き手に答えるかたちで「K2に一緒に登った連中は、野望の塊だった、何をしたら『すっげー』って言われるかみたいな話ばかりしていた。有名になってアイドルと結婚してやる、とか。でも竹内だけは、そういうこと言わなかった。本当のところ、どうなんだろうね。野望みたいなもの、ないのかな」と発言している。
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野望はあると思います。ただ、山を続けていきたいっていう野望です。でも山を手段として何かをしたいという野望はない気がします。山登りで有名になって選挙に立候補するという野望はないというか。
それより常々、美しい山登りということを考えています。具体的にいうと、細部まで如何にこだわれるかということです。それが最大の面白さだと思います。
例えば陶芸家が左右均等の壺を作りたいとか、どこもすべて同じ厚さの皿を作りたいとかっていうのと同じだと思うんですよね。大工さんが平らな机を作ったときに、如何に狂いのないものを作りたいとか、本当に真っ平だと反って見えちゃうから、角を少し落とすと錯覚で平らに見えるんだとかっていうのは、やっぱりどこまで自分が納得できるかっていうことだと思うんです。・・・測るんじゃなくて、自分の目を信じて、平らになるように外を少し落として、ああ、これこそが平らってものだと突き詰めていくような感覚って、人間にはあると思うんです。本来だったら、ただ見た目がよければいいっていうものを、あそこまで突き詰めていく。焼き物も工芸品も、刀も。何だってそうだと思うんですけど。
だからそれと同じように、どこまで自分を突き詰められるだろうかって想像して思い描いていくことが面白いです。・・・
ただ、自分で納得のいく、細部までこだわった美しい登山を続けていきたい。それだけです。