ぶらっとヒマラヤ

ぶらっとヒマラヤ

 登山好きな新聞記者である著者が、ヒマラヤのダウラギリに登ることになった前後も含めたお話。

 ふしぎなタイトルだなと手にとりました。

 こちらは印象に残った、ダウラギリで出会ったスペイン人の登山家の話です。

 

P172

 ダウラギリで畏るべき登山家に会った。81歳のスペイン人、カルロス・ソリアだ。

 14歳で山に魅せられ、織物職人をしながらバイクで欧州アルプスの山に通ったそうだ。その実力が認められ、30代前半で国を挙げてのヒマラヤ遠征の隊員に選ばれマナスルを目指したが、登頂はかなわなかった。

 スペインで織物の仕事を続け家族を養いながらも、山から離れることはなく、51歳にして念願の8000m峰、ナンガ・パルバット(8126m)の登頂を果たした。4年後の55歳でガッシャーブルムⅡ峰(8035m)に登頂し、60代からは銀行などのスポンサーもつき、エベレストやK2などを次々と登っていった。現在までに14座ある8000m峰のうち12座を登り切り、残すはダウラギリとシシャパンマ(8027m)のみとなった。

 60歳から8000m峰を10座も登ったのは世界でこの人のほかにはおらず、この先、14座全てを登った場合、おそらく当分誰にも破られない最高齢記録となる。ダウラギリ挑戦は今回で10度目だった。

 カルロスとはベースキャンプで知り合い、3週間後の最終キャンプ入りまで、ほぼ行動を共にした。身長160㎝でやせっぽちに見えるのに、握手するとこちらの手が痛くなるほど力強く、抱擁すると筋肉質の体は鋼鉄のようだった。

 登頂を断念しベースキャンプに下りた後、カルロスのテントで一度じっくりと話を聞いた。

「8000m峰の中でもダウラギリはかなり難しい方だ。キャンプ2から最終キャンプの3までの傾斜がものすごくきつく、キャンプ3から頂上までも長いトラバースが続く。頂上直下の地形は複雑でまた長い。人にもよるがアタックに15時間から20時間はかかり、どんなに強くてもこの時間はそれほど縮まらない。十分に高所に順応していないと登れない山なんだ。あと、この山域は中国国境に比べ雪が多く、降り方、量で難易度が大きく変わってしまう。今年は異常なほど雪が多く、条件が悪かった」

 このとき、カルロスは80歳だった。私の感覚ではかなりの年寄りだが、彼は実際にとても強く、速かった。6000mから7000m台になると、さほど変わらなかったが、出だしの5000m台では私の倍近い速さで歩いていた。私の年齢、50代末など、彼から見れば若造もいいところである。

 彼と話しているときはスペイン語のため、互いを「tu(君)」と呼び合う。言わばため口になるせいか、年齢による私の偏見がみるみる崩れていく。

 実際私自身、年齢には今ひとつピンと来ないところがある。というのは、外見や体力だけでなく、感情、心の柔らかさ、物の見方の鋭さ、感じ、訴える力、チャーミングさといったことを考えると、年は同じでも個人差がかなり大きいからだ。

 単に若々しさだけではなく、そのたたずまい、物腰の柔らかさ、親近感など、私は初対面のときから、カルロスに敬服せざるを得なかった。

 今回私は鼻を手術してまでヒマラヤに臨んだが、最初から最後まで、どうしたら最適の呼吸になるのか迷い、苦しんだ。その点を聞くと、彼は「そうだよ、山に限らず、実は呼吸が一番重要なんだ」と応じた。

「呼吸は自分の歩み、歩き方に合わせるのが大事だ。自分は若いシェルパのように速くは歩けないが、彼らのようにまとめて1時間も休んだりはしない。5分から10分休んで、すぐに歩き出す。高所で体が冷えると、自分の場合、温まるのに時間がかかるからだ。うまく呼吸するためには、登っているときに常に自分の体に問い続けることだ。『どのペースが一番楽だと思う?』と自分に聞き続けるんだ。するとリズムが少しずつわかってくる」

 ジョギングなどもそうだが、いかに自分の体を知っているかに尽きるということだ。疲れているときに無理をしてはいけないのだ。

 日々どんなトレーニングをしているのだろう。

「私は年金生活も15年を過ぎ、基本、毎日時間だけはある。だから自転車をよくこいでいる、特に坂道をね。家の近くに標高300mと1000mの山があり、ここを自転車で登るんだ。この自転車が以前痛めた膝を鍛えてくれる。若い頃は毎週のように氷や岩を登りに行ったが、それができなくなり、今はトレーナーの友人と数時間バランスを気にしながら歩く程度だ。膝が悪いから走りはしない。自転車か歩きのトレーニングを毎朝3,4時間やって、午後はゆっくりと休む。休まないとトレーニングの効果が出ないからね。昼寝は2時間ほど。とにかく、常に自分の体が何を求めているかに聞き耳を立てることだよ」

 年など関係ない。私も含めた多くの人はただ、年齢という名の錯覚に陥っているだけなんだ。カルロスを身近に感じ、私はつくづくそう思った。

 ・・・

 ダウラギリの再挑戦についてはこう話していた。

「また戻ってきたい。戻ってきたら、この周辺で15日間ほど5000m級の山に登って順化するんです。実はそれが一番楽しいんだ」

「8000m峰の14座登頂を祈っています」。別れ際、私がそう声をかけたときのカルロスの返事が粋だった。

「ありがとう。そうだね、14座全てを登り切るのも人生、でも、それが辛うじてできずに死ぬのもまた人生だよ」