甘える

おやじはニーチェ―認知症の父と過ごした436日―

 この辺りも印象に残りました。

 

P235

「ねっ、お母さん」

 お母さん?

 ・・・

 ・・・父は私のほうを向いたまま、こう続けた。

「明日はお母さん、何か用があるの?」

 これまで「社長」「兄貴」「義兄弟」などと呼ばれてきたが、性別を超えた「お母さん」は初めてで、さすがに私はうろたえた。私はよく母親似といわれるので、今日は母に見えるのだろうか。

―明日はジュンちゃんが来る。

 とりあえず、そう答えると、父はこう言った。

「ジュンちゃんがQ?」

―いや、Qじゃなくて、ジュンちゃんが来る。

「ジュンちゃんがK?」

―Kはキーちゃんでしょ。

 私は母の名前を出した。私が「お母さん」なら私はキーちゃんである。ここでしっかりと思い出してほしいと願ったのだ。

「俺はもう、本当にキーちゃんには頭が上がらない」

 さっと真顔になり、父はそうつぶやいた。これは母が亡くなる前に、父がよく言っていたフレーズだった。

「全部キーちゃんのおかげ」

―そうだよね。

 ・・・

「そうだよ。だって俺なんかなんにもできないんだもん」

 本当に母のことを思い出しているのだろうか。言い方が蘇っただけではないだろうか。一抹の疑念がよぎったが、ウィトゲンシュタインが言っていたように母を語ることがすなわち母の想起体験だと思うしかない。ここで下手に確認をとろうとすると、残念な答えが返ってきたりするので、私はそのまま黙ることにした。

「ああ、キーちゃんの後ろにバーッとくっついて、ゆっくり寝たいな」

 いきなりの生々しい告白に私はたじろいだ。

「本当にそう。あったかいし」

―あったかいんだ。

「そう、そう」

―キーちゃんと一緒なら安心だよね。

「そう、そう、そう。だって英語で書いてあるしさ」

 なんで英語?と思ったのだが、聞き流すことにした。キャッチすべき言葉と聞き流す言葉を仕分けることが認知症介護なのだ。・・・再び床掃除に戻ろうとすると、父が私に問いかけた。

「俺、甘ったれてんのかな?」

 よく見ると何やら神妙な顔つきだった。

―甘ったれ?

「そう。昭二、甘ったれてんじゃない!ってな」

―甘ったれてはいないと思うけど……。

 そう否定しかけて、私ははたと気がついた。

 父は甘えている。「甘えている」こそ父の行動様式にピタリと合う言葉じゃないか。母に愛されていたが、父は母を愛するのではなく、ただ甘えていた。はっきり言って、昭二は甘ったれなのだ。

 ・・・

 ・・・三男でお調子者の父は昔から「甘える」ことが上手なのだ。母親に甘え、妻に甘え、そして今は息子に甘えようとしている。私のことを「お母さん」と呼んだのも「甘える」の現われ。甘えたくて私が母に見えたのだろう。・・・

 ・・・

 ・・・考えると、認知症は「甘えるな」というコンセプトで構成された症状である。診断もひとりで生活できるかということを基準にしているし、家族への「振り返り」に注意するのも甘えを警戒している。記憶障害という考えもおそらく「甘え」がベースにあるのだろう。例えば、私は妻と一緒にいると、人の話を聞き逃してしまう。妻が聞いてくれているだろうという甘えから、聞くことを怠ってしまい、記憶にも残らないのだ。「いつ、どこで、何をした」という出来事記憶や、「なぜ今ここにいるのか、ここはどこで、今はいつで、どういう状況なのか」という見当識も然り。誰かと一緒におり、すべてを委ねていれば、いちいち気にとめる必要はない。完全に甘えると記憶は必要ない。父もずっと甘えてきたので記憶するという習慣がないようなのだ。

 ・・・

 かの鈴木大拙も東洋で神様といえば「母といふ感じ」(「わが眞宗觀」/「鈴木大拙全集 第六巻」岩波書店 昭和43年 以下同)だと記していた。西洋の神様は悪ければ罰する「律法的」な神様だが、東洋の神様は母だと。

 

 悪いことをしても、何をしても、子供を匿つて、まあまあといふわけで見逃す。さふいふのが、どうしてもほしいですね。

 

 まさに甘えられる神様。・・・土居健郎によると、「私は甘える」という言い方がないように、「甘える」は無自覚。人は無意識に甘えてしまうのである。西洋哲学的に「甘える」を考えると、甘える主体と甘えられる客体を分離することになるが、日本では完全なる一体化。・・・最初から溶け合っていて区別がつかないという境地なのだ。

 その象徴が「南無阿弥陀仏」という念仏である。・・・一遍上人が詠んだ「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」(『一遍上人語録』岩波文庫 1985年)のように分別を超えた完全なる「甘え」の境地。

 ・・・

 ・・・その境地を表現したのが妙好人の浅原才市らしい。

 

 さいち(才市)にや、なんにもない。

 よろこびほかにわ、なんにもない。

 ゑゑ(よい)も、わるいも、みなとられ。

 なんにもない。

 ないが、らくなよ、あんきなよ。

 なむあみだぶに、みなとられ、

 これこそ、あんきな、なむあみだぶつ。

(楠恭著『妙好人才市の歌 一』法蔵館 昭和24年 以下同)

 

 ひたすら「なんにもない」と繰り返す才市。甘え切るとよろこび以外には「なんにもない」。「なんにもない」ことが楽で安気なのだという。彼にはこんな歌もあった。

 

 なんとなく、なんとなくが、み(身)をたすけ、

 なんとなくこそ、なむあみだぶつ。

 

 南無阿弥陀仏は「なんとなく」。なんとなく助けられ、なんとなく生きている。いつ、どこで、何をしようが「なんとなく」。なぜ今ここにいるのか、ここはどこで、今はいつで、どういう状況なのか、などと訊かれても「なんとなく」。まるで認知症のようだが、考えてみれば人と人は「なんとなく」通じ合うわけで、私たちは認知症的な意識で結ばれているのかもしれない。