親子みたいなもん

おやじはニーチェ―認知症の父と過ごした436日―

 コントみたいなことになってますが・・・このやりとりに何か惹きつけられるものがありました。

 

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 ・・・私のことを「旦那」と呼ぶ。完全に見ず知らずの人になってしまったようなのである。例えばある午後、父は私にこうたずねた。

「旦那はここ、初めてなんですか?」

 真剣な面持ちの父。・・・

 ここは仕事で来た現場。私はそこに居合わせた「旦那」のようなのだ。

「今度ウチの近くに来たら寄ってくださいよ。川のそばでタカハシっていえばすぐわかりますから。あたしは昭二っていうんです。・・・おふくろもよろこぶからさ」

 父は一気に語り続けた。「お母さんと一緒に住んでいるんですか?」とたずねてみると、「おふくろでしょ、あと妹」と指折り数えた。

―結婚はしてないんですか?

「俺?」

―そう。

「してないですよ、旦那。だってこれがいないじゃん」

 小指を立て、私を小突く父。

―今、いくつなんですか?

 試みにそうだずねると、父は自分を指差した。

「あたし?歳?28歳」

 ちょうど結婚前の歳である。タイムスリップとしては年齢が合っている。

「だからさ、ウチに泊まればいいじゃん。ふたりで布団に入って寝ようよ。誰もいないところでさ。来てくれればうれしいよ。もう泣きたくなっちゃう」

 父は私を口説いているのだろうか。そういえば入院以来、私に何度も「いい体してるね」「貫禄があって素敵」「こっちに来て抱き合って寝ようよ」などとベッドに誘っていた。よもや一体化したいのか、と私はひるんだ。

―昌雄さんはどうしたんですか?

 唐突に私はたずねた。昌雄さんとは父の長兄。父が28歳の頃、昌雄さんはシベリアでの抑留生活を終えて帰国していたはずである。

「ま、昌雄は兄貴だよ」

 父は目を丸くして驚いた。

―シベリアから帰ってきたんでしょ?

「おおおおお、よく知ってんじゃないですか。俺の兄貴だよ。俺の兄貴。いやいやいやいやいや、本当にびっくりした。なんで、なんで知ってるの?」

―ウタちゃんだって知ってますよ。

「ウタちゃんは俺の妹。うわあ、やめてよ、本当に」

 父は「うわあ、うわあ」と繰り返し、卒倒するようにベッドに倒れ込み、シーツをかきむしって大よろこびした。

「ねえ、なんで?なんで知ってるの?旦那、一体、どこの人」

―どこって?

「どこで生まれたの?」

―生まれたのは横浜市中区上野町。

「うそお、うそだあ」

 私の肩を思い切り叩く父。

―うそじゃないですよ?

「だって俺と一緒だよ。中区上野町っていったら。大体、旦那は学校どこ?」

―希望ヶ丘高校。

「うわあ、最高じゃん。本当に?」

―本当に。

「だってそれ、ウチのせがれと同じ。それで大学は?」

東京外国語大学モンゴル語学科。

「やだ、やだ、やだ、やだ。それじゃあまるっきりウチのせがれと一緒じゃないですか。旦那は名前はなんていうの?」

―タカハシです。

「やだ。名前も一緒。下の名前は?」

―ヒデミネっていうんです。

「知ってる。その名前知ってる。聞いたことある」

―そうなんですか?

「だって、あたしのウチはここでしょ」

 父はそう言って、シーツに指を立てた。

「そのヒデミネっていうのは、ここなんだよ」

 指の位置からして、すぐ隣らしい。親しみの距離感を表わしているのか。

―近いですね。

「近い。ウチからすごく近い。それこそ朝起きたら連れていってあげますよ。いやあ、おふくろなんかも絶対びっくりするよ。本当にうれしくなっちゃう。ああよかった。旦那に会えて本当によかった。でもあれだよね、あんまりヘンなことばっかり言ってると、旦那のお父さんに怒られちゃうね」

―お父さんは昭二っていうんですよ。

 そう言うと、父は気絶したようにフリーズした。

「そんなことってある?ああああ、本当にびっくりする」

 父は私の顔をしげしげと見つめ、「そういやあんた、ウチのせがれに似てる」と言った。この私は子として認められていないが、その私は父の自慢の息子のようでもあり、私は少しうれしかった。

「これもあれですかね、ひとつのご縁ですかね」

 父はしみじみとそう言った。確かに縁といえば縁である。まるで平行世界のようだが、こうしてつながる感覚のことを縁というのだ。

―そうですね。これからもよろしくお願いします。

 私が頭を下げると、父はこうつぶやいた。

「それじゃ、旦那とあたしは親子みたいなもんですね」

―お、親子みたいな?

 今度は私がびっくりした。親子みたいな親子。通常は実の親子でない時に「親子みたい」と形容する。「親子みたい」とは親子でないということを含意するので、親子でない親子ということか。親子でないと思っていたのに親子だと気がついた瞬間ということか。