学問がないと・・・

おやじはニーチェ―認知症の父と過ごした436日―

 なんと絶妙なやりとり・・・印象に残ったところです。

 

P124

―お父さんは心配事や悩みとか、あるの?

 家族としては何やら唐突な問いかけだが、私が手にしていたのは横浜市健康福祉局から届いた高齢者実態調査のアンケート用紙。たまたまそこに「心配事や悩みがありますか」という質問項目があったので、それに乗じて「これに答えないといけないから」と質問したのである。

「そりゃあ難しいや」

 首を傾げる父。

―難しい?

「だってそりゃあ、めちゃくちゃだよ」

 何が言いたいのかわからず、私は質問を変えた。

―悩みはある?

「悩みはない。なんにもない」

 父は即答した。

―心配事は?

「へえ~」

―いや、「へえ~」じゃなくて、心配事はありますか?

「別にさ、あれが欲しいとかこれが欲しいとかないもんね。でも今日なんかはどういうコース?どういうコースで行くわけ?」

 要するに父のニーズは「早く散歩に行きたい」ということ。探るまでもない表層的なニーズなので、私は病院で入手した認知症の問診票を取り出した。問診票には「あてはまるもの(お気持ち)があればチェックをしてください」と11個のキーワードが列記されており、それを指差しながら質問することにした。まず最初は「不安」という言葉だった。

―「不安」はありますか?

 かしこまった口調でたずねると、父はこう答えた。

「不安はあります。一番は不安です」

 父らしからぬ「です」「ます」調。何やら深刻な様子で、もしや父の本音なのか。

―どんな不安ですか?

「そういうことはなかなか言えません。お兄さんは上だから、こうじゃないああじゃないなんて言えますけど、あたしなんかが言うと『生意気言ってんじゃねえ!』『ふざけるな!』『しっかりしろ!』って言われてしまいます」

 言葉にできない不安。不安を吐露することに不安を覚えているということか。

―「恐怖」はありますか?

 次の言葉に進むと、父はうなずいた。

「それはどうやって書くかによりますね」

―書く?

「『きょう』が都ということなら、それはそれでいいんじゃないでしょうか」

―京都っていうこと?

「京都ですか?」

 問い返す父。

―いや、恐怖です。恐怖はありますか?

「京都にも行ったことありませんし、あたしんとこは神奈川ですから」

 恐怖は関係ないと言いたいのだろうか。私は首を傾げ、再び問診票に目を落とす。

―それじゃ「落ち込み」はありますか?

「おつとめ?」

―いや、気持ちの「落ち込み」です。

「落ち込みじゃ、しょうがないですね」

―しょうがない?

「でも、落ちるって言ったっていろいろですからね。問題はどこに落っこったかということじゃないでしょうか」

―そうですね。

 思わず私は納得した。論理の落し穴に落ちたような気分だった。

―「むなしさ」はありますか?

 続けてそう訊くと、父は即答した。

「聞いたことはあります」

―聞いたことが?

「あります」

―どこで?

「確か病院で扱っているもので、素人じゃできないことです。あたしなんかが言うと『バカヤロウ!』『しっかりしろ!』と言われてしまいます」

―「孤独」は感じますか?

「それは学問がないとダメです。お兄さんみたいに学問があるから孤独なわけで、あたしのように学問がないと孤独も何もありません」

 虚を衝かれ、私は言葉を失った。考えてみれば「むなしさ」も「孤独」も学問上の概念にすぎず、その「ある」「なし」も学問体系へのコミットを意味するだけなのだ。「焦り」についても父は「あせりはないけど、あたしは高橋です」と答え、「イライラ」は「するんでしょうね」とのこと。最後に「『混乱』はありますか?」と質問すると、こう答えた。

「混乱はどこでもやってます」

 どこでもやってる混乱。確かに混乱こそは世間の常態で、私もすっかり混乱した。

 父のパーソンフッド(その人らしさ)を中心に考えると、中心は「空」のようで気持ちを表す言葉も父をすり抜けていくようだった。・・・